くず米を炊いて食べてみる

 去年収穫したお米がまだ残っていたので、ワンコイン精米所で20Kgほど精米して、直売所に出荷しました。実は、ここ1ヶ月以上、私はそれとは別に20Kgほど残っていたくず米(『しいな』とも呼ばれています。)を食べていました。本当は、このくず米を粉にして、おせんべいか何かを作る予定でした。が、それをする時間が無かったので、一か八か炊飯器で炊いてみたら、うまく炊けたので、主食に代えることにしました。それで、1ヶ月以上それを食べていました。
 食べ方は、精米した白米とはだいぶ違います。玄米と同じで、よく噛んで食べないと消化できません。味は、玄米とほぼ同じで、お米本来の味がします。白米とは別の食べ物と思ったほうがいいと思います。
 もみや細かい土が混じっていることがあるので、水でよくとぐ必要があります。炊飯器で炊く時は、少し水を多めに入れます。玄米と違ってアクがあまり出なくて、よく水でといでおけば、きれいに炊けます。
 この記事で初めに述べたように、玄米の形で保存していた自給用のお米があったのですが、くず米がなかなか片付かなかったので、結局残ってしまい、新米の置き場所がないので、事業仕分けしてしまいました。それでも、まだ50Kg位は残っているので、東京の自宅へ宅急便で送ったり、後はどうしようかと考え中です。くず米は、家畜の食料にはなりますが、人が食べるお米としては売れませんから、私自身で食べるしかなかったのです。
 くず米を食べながら考えていたのですが、こういうものを私は生まれて初めて食べてみて、十代二十代の若いときよりも体が元気になったような気がしました。
 と言うか、十代二十代の私は、外見も内面も疲れた中年男そのものだったような気がします。考えがコロコロ変わったり、公私共に粘り強さがありませんでした。まあ、誰でも若い頃はそんなものかもしれません。そのために、体も心も不安定で、うまくいかない人生に苦しんでいた感じがします。そのままいったら、若くして早死にしていたかもしれません。(当時占いを見てもらったら、早死にの相が出ていると言われました。)
 今では、若い頃に悩んでいたこととかの、解決策まで考えられるようになりました。勿論、これからもなるべく無理をせずに、生き続けることを目標にするつもりです。より多くのお金を稼ぐために際限なく無理をすることほど、人の命を縮めるものはありません。お金の収支のバランスをしっかり把握しながら、労働に体をすり減らさないことと、強い精神力をもつことは、生きていくために必要だと思います。
 年をとって、夢とか希望をあきらめてしまうのは仕方が無いことだと思います。私だって若くはありません。でも、もともと未来にありもしない夢とか希望とか神とか愛とかを無いものねだりするよりも、まず足元を見て、人間として何を手にしたら幸せになれるのかを一人でよく考えてみる必要があると思います。いくら時間がかかっても、かまいません。人生が終わるまでに、それがわかればいいのです。
 そんな哲学的なことを考えられるようになったのも、もしかしたら、くず米を炊いて食べられるようになったからかもしれません。私が若い頃には、こうした考え方は全くできませんでした。大人になって、会社に勤めても、そんなことは誰も教えてくれませんでした。おそらく私は、そうした過去に起きた様々なしがらみは、経験という形で憶えてはいるとは思いますが、今の私の人生に直接関係は無いと思っています。
 私は、新入社員として採用された会社を、私自身の視野を広げるという言い訳で辞めています。もしその会社を辞めなかったらば、かなり上の役職になっていたかもしれません。しかし、それはあくまでも虚勢を張って考えたからそう思えるのであって、その前に過労死したり、ガンや変な病気にかかって、正反対の人生になってしまったかもしれません。さらにその二十年後には、会社勤めも辞めてしまって、都市部の外の世界で働くようになりました。私自身の視野はさらに広い方向に開かれました。正直なことを言いましょう。日本のすべての中心である東京などの都市部は、今の私には、とてつもなく大きな村社会にしか見えません。(別にそれが何の自慢にもなりませんが、)それが現在の私の視野の広さなのです。
 日本は、確かに資源の無い国です。私は、小学校・中学校のころから、何度も繰り返しそう教え込まれてきました。資源の無い国だから、付加価値の高い仕事をして、働いて生きていくしかないのだ。と、耳にたこができるくらい教え込まれてきました。事実その通りだと思います。ですが、何でも付加価値の高い仕事にして、無理をしているのも事実だと思います。日本の社会のしくみ全体もまた、付加価値の高い仕事に合わせて、無理な構造になっているところがあると思います。
 ちょっととりとめの無い、蛇足で余計な話になりましたが、こうしたことはどうにもならないと思ってもらわないほうがいいでしょう。いつかきっと、こうした世の中が一変してしまう時がきっと来ると思います。その時に、みんなであわてないことを願いましょう。