えび天の一作品を再評価する

 この年末年始の、とある深夜に、私はテレビで『ニュー・シネマ・パラダイス』という映画を視聴していました。なぜこの映画を観ようと思ったのかと申しますと、その映画音楽を使った前川衛監督のえび天作品『仮面ライダーV3 ~華麗なるsay good bye~』のことを憶えていたからです。『えび天』とは、『三宅裕司のえびぞり巨匠天国』という番組名の略称です。その映像作品の一つの、音楽のもとになった映画『ニュー・シネマ・パラダイス』がどんな映画なのかを、今になって私は知りたくなりました。なぜ、このコロナ禍に、そのような映画が深夜のテレビでやっていたのか、つまり、それには何か意味があったのかもしれませんが、それを考えるのはひとまず後にすることとして、とりあえずその映画を私が観たという事実だけをここでは記しておきます。
 以前私は、2013年のブログ記事の一つで、そのえび天作品について、通りいっぺんの紹介と感想を書きました。しかし、今回このコロナ禍で、再度その映像作品を見直してみました。すると、前には気がつかなかった、あることに気がつきました。
 この映像作品には、2つの大きな見方がありました。一つは、2013年のブログ記事でも書いた通りの様々な賞賛の意見でした。もう一つそれとは反対に、当時TBSアナウンス部副部長で、映画にも詳しくゲスト審査員として出演されていた林美雄さんの意見がありました。「情緒的な甘いハッピーのパターンになりすぎている。」という指摘がございました。TBSアナウンス部では、MCの福島アナの「お父さんみたいな」上司であったからかもしれません。なるほど、子供を心配する親の目線からすれば、この映像作品の内容は、10代の子供たちの恋愛のざれごとであり、「ハッピー。ハッピー。」ばかりでは不安で観ていられない、すなわち、子供のいる親として素直に観てはいられないというわけだと思います。正義のヒーローの仮面ライダーV3が登場する必然性をさえ疑っていらっしゃいました。
 このような評価は、1991年当時の日本を考えても、いたしかたなかったと言えます。大きな自然災害やコロナ禍で多くの人々が毎日つらい目に合っている現在と比べると、平成初期のあの頃は、ある意味まだまだ幸せな時代だったのかもしれません。そのような批判的な評価をできるだけの余裕が当時にはあった、と考えるべきなのかもしれません。
 この映像作品に対する現在の時点での私の評価は、映像技術的な面では以前とそれほど変わっていません。再評価してみて何が変わったのか、という点について以下に述べておきます。前にも述べましたが、大きな自然災害やコロナ禍で、多くの人々の日常的な意識が少しずつ変わってきています。1991年の当時では、それほど気にしなくても普通に生きて行けたことが、今はそうではありません。これから生きて行くために、ガチで向き合っていかなければならないことも増えました。もともと人生には、どうにもならない運命みたいなものがあって、長く生きれば生きるほどその後悔と苦しみを背負っていかなければならない、という側面があります。そのことを知って、それに向き合うのは誰しもつらいことです。そのようなつらい体験を経(へ)て、10代の目線に帰って、このえび天の映像作品を改めて視聴してみると、私は胸の苦しさを感じて、それがいつまでも消えませんでした。
 「お互いに本心を告げられずに、最後に会うこともなく、女の子の方がどこかへ転校していってしまう。」という、どうにもならない運命みたいな不幸とは、ある意味『目に見えない悪の怪人みたいなもの』です。少し幼稚な考え方かもしれませんが、そこに、正義のヒーローとしての仮面ライダーV3の登場の必然性がある、というわけです。確かに幼稚です。にもかかわらず、それを単なる稚拙(ちせつ)な考えと笑っていられない現実を、現在の私たちは目撃しています。正義のはき違いという、いわゆる自粛警察やネットのひぼう中傷が、他人を苦しめたり死に追いやるという現実を、現在に生きる私たちは知ってしまったのです。本来、正義の味方はどうあるべきなのか、あるいは、知らず知らずのうちに悪に成り下がってしまっていいものなのか、ということを、この世を憂(うれ)う皆様や、自粛警察の皆様方はもちろんのこと、私たち各人が判断し検討することが求められております。
 なお、さらなる作品の理解を進めましょう。この映像作品が制作された1991年頃の時代背景を、もう少し振り返って検証してみます。悪の怪人が現れない正義のヒーローなんて、ちょっと考えられない、というのが当時の世間の常識だったと思います。当時の子供向け番組といえば、どれも勧善懲悪のストーリーで理屈なしに楽しめるようにと、わかりやすく制作されていました。正義のヒーローの繰り出す必殺技で、悪者の怪人がやられて爆発するという演出を、視聴する側は手放しで受け入れてスッキリしていました。今でも、そんな昭和仮面ライダーのファンだという大人たちも少なくはない、と聞いています。
 思い返せば、1991年は仮面ライダーBLACKがオンエアされていた頃から3、4年は経(た)っていたと思います。平成仮面ライダーシリーズが始まったのが2000年からでしたから、このえび天の映像作品は、それよりもずっと前に作られていたことがわかります。そんな時代に、悪の怪人や怪物や怪獣といった『目に見える、具現化された悪の存在』をあえて映像化しなかったことが、ある意味で先駆的な点だったのです。今でこそ、どうにもならない運命に対して抗(あらが)う人間の心を応援して助けることが、平成仮面ライダーシリーズなどでは定番となっていますが、1991年の当時としては、革新的なアイデアだったのです。
 そこで、私が、このえび天の一作品を改めて視聴して感じた、情緒的な苦しさとはどういうものだったのかを表現したいと思います。それは、全く別の時期に私がテレビで観たある出来事に、よく似ていました。それは、喜劇王チャップリンの特集番組でした。チャップリンの短編映画の中から一つの映像シーンが紹介されていました。
 主人公を演じるチャップリンが、器に入ったミルクを手に入れました。ところが、彼は貧しくてお金が無くて、そのミルクに浸して食べるパンがありませんでした。そこで、身近にいた犬の尻尾(しっぽ)を捕まえて、その尻尾をミルクに浸して、それを一口ずつしゃぶるのです。そうして、パンをミルクに浸して食べる代わりにしたという、それだけの映像でした。
 ところが、その番組中のスタジオで、とんでもないことが起こりました。そのスタジオで映像を観ていた出演者の一人に、あのねむの木学園の園長だった宮城まり子さんがいらっしゃいました。彼女は、そのチャップリンの喜劇の映像の断片を観た直後に、いきなりワンワンと大声で泣き出したのです。周りの出演者も、番組のスタッフの人たちも、その場の雰囲気ということで、彼女が泣き出したことを容認しました。私は、その時そのテレビを観て、チャップリンの喜劇の裏には、現実の人生のどうしようもない悲しみとか苦しみとかが『隠された映像』として描かれていることを知りました。言い換えれば、そうした人生のどうすることもできない運命とその悲しみや苦しみをベースあるいは背景にして、みんなが笑える彼の喜劇映画が制作されていた、ということなのだろうと思いました。
 前川衛監督のえび天作品『仮面ライダーV3 ~華麗なるsay good bye~』を今回私が改めて視聴して、ひしひしと感じられたその『苦しさ』とは、そのようなチャップリンの喜劇映画に感じられるものと共通の『苦しさ』でした。そしてさらに、それは(今回はあえて記述しませんでしたが)『ニュー・シネマ・パラダイス』という映画の劇中に描かれた、若い男女の不幸なすれ違いとその『現実の人生のどうしようもない運命』による苦しみや悲しみとも共通しています。つまり、それらが、今回の再評価で私が一番気づいたことでした。

3密の検証 その2

 そこは、去年の4月19日(日)に、私が、レジを通った正体不明の老婆に至近距離で飛沫を浴びせられた、地元のスーパーマーケットでした。大部分の都会の人は知らないと思いますが、現在地方の町村では、魚屋さんや八百屋さんなどの食の小売店(小規模店舗)がつぶれてしまって、私の住んでいる地元でも皆無となっています。スーパーマーケットやコンビニや農産物直売所や道の駅などの大中規模店舗しかありません。食に関係のないクリーニング屋さんなどは、そうした建物の端っこにあって、独立した建物で店を開いている所なんかはほとんどありません。したがって、そうした店舗に防犯カメラの監視システムを導入していない所は、全くありません。今回私が言及する地元のスーパーマーケットにおいても、万引き防止や不審者の発見のために、ずっと前から防犯システムを導入していました。私は、その店舗で万引きなどをしたわけではありませんが、店舗内でちょっと不審な様子が私に見られただけで、店員の一人がそっと近づいてきたことがありました。
 あの日、私は直近(ちょっきん)で飛沫を浴びせられてから、軽トラで家に帰って、手と体を洗ったのですが、その夜に発熱して寝床で絶対安静を余儀なくさせられました。その老婆が私にとっての感染源だとしても、正体不明の見知らぬ人なので、その人を探しようがありません。さしずめ感染経路不明といったところでしょう。
 そのお店では、あのような4月以降も、お客さんがステイホームの影響などで少し多めに押しかけてくるようになりました。人数制限ができたとしても、押しかけてくるお客さんを入店拒否することは結局できません。そこで、4月末頃からは、そのお店で感染症予防のために矢継ぎ早に対策をとるようになりました。
 まず、店舗の出入り口には消毒液が置かれて、レジは透明で厚いビニールコートやアクリル板でガードされました。レジの人は、マスクとフェイスガードとビニール手袋を着けて、手元に置かれた消毒液も使います。そして、レジの前に並ぶ人は、間隔を空けて並ぶようにと、床にシールやステッカーが貼られました。なお、各レジ毎の頭上で個々に防犯カメラが見張っていることは、以前と少しも変わっていません。
 店舗の出入り口のガラスの張り紙や立て札には、店員に感染予防対策を徹底している旨と、来店するお客さんにお願いしたい旨を箇条書きで何行も書かれていました。マスク着用の義務付け、出入り口での手指消毒、発熱や体調の悪い人の入店を控えてもらうこと、大人数での来店をしないこと、通常混雑する時間をずらしての来店の奨励、等々が書かれています。
 これで終わりかと思っていたら、そのうちに、レジを通った先の、買った商品を袋へ移し替えるスペースが、アクリル板で個々に仕切られるようになりました。店内カゴの消毒がこまめに行われているそうです。出入り口の消毒液も、自動で消毒液が出る装置や、足踏み式で消毒液が出る装置が新たに追加されました。
 さらにしばらくして、その店に行ってみると、通路の幅が広くなっていたり、商品の積み上げなどによる大きな障害物がなくなって、すっきりした空間になっていました。これには、2つの意味があって、通気を良くしているということと、見通しを良くしていることが見て取れました。防犯カメラの側からみると、店内の死角をなるべく失くすための工夫だということが推測できました。事実、以前よりも、店内の防犯カメラの数が増えたように思えました。ただし、ちょっと見た感じでは、多数の防犯カメラが、天井にぶら下げた小さなアクセサリーのような飾りに見えました。つまり、来店したお客さんに余計なストレスを与えないように配慮がされています。一つの防犯カメラを正面に回ってじーっと見つめないと、そのカメラのレンズと目が合わない、その程度のものです。
 さて、去年の12月のなかばのことです。いつものように私は、マスクを着用して入店しました。ある食料品を求めて、店内の奥まったコーナーへ向かいました。私がそこへ到達する前に、5、6人の20代か10代のマスクをした女性たちがそこにいるのを目にしました。しばらくして私がそこに到達した時には、周りに誰も近くにいませんでした。ところが、それにもかかわらず、私はマスクの下で1、2回むせてしまいました。「どうしたのだろう。」と周りを見回してみても、そのコーナーにいたのは私一人で、誰も近くにいませんでした。
 それが、私が直面した不思議な体験の1つ目でした。けれども、まもなくして2つ目の不思議な体験をしました。左右に品数の多い食料品を乗せた移動棚が並んで、少し狭い通路がありました。私は、そこを遠くから見ていたのですが、そこを通った背の高い男性が、マスクごしに1回咳き込むのを目撃しました。その時、その男性の周りには誰もいなくて、彼一人だけがそこを歩いていました。人が群がっていないにもかかわらず咳き込むなんて、その人個人の問題なのかな、とその時の私は思いました。そう思っているうちに、私自身もその狭い通路を通っていました。周りに誰もいなくて私一人がそこを歩いていたのですが、私もやっぱりマスクごしに1回咳き込んでしまいました。何で咳き込んだのかを今度は検証してみたのですが、何か目に見えない微小で軽微な粒子みたいなものが、不織布マスクを真っ直ぐ通り抜けて吸気と一緒にのどに入って咳き込んだようです。
 そのようなことを実体験したものの、私はいつものように食料品の買い物をして、レジを通って店を出て、軽トラで家に帰りました。いつものように手を洗って、シャワーで体を洗って着替えて、食事を作って食べました。念のため、早目に寝床に就きました。その直前に血圧と心拍数を計測しましたが、異状はありませんでした。一晩寝ても発熱はせず、次の日も大事をとって、寝床で休養していましたが、何も異変が起こりませんでした。すなわち、何らかの微小なものを吸い込んで咳き込んだものの、幸運なことに、それによる感染はなかったと結論づけました。(もちろん、4月に私が経験したことが、その比較と判断の基準になっていたことは言うまでもありません。)
 それでまた、その翌々日にそのお店へ行ってみたのですが、そこで、私は新たなことを知ることとなりました。5、6人の若い女性を目撃したあの奥まったスペースへ行ってみたところ、やはり私の周りには誰もいませんでした。ただし、この前とは何か様子が違っていました。何か、この時期(12月)の外気のような少し冷たい風が、どこからともなく緩やかに流れてきて、肌に当たっているように感じられました。微妙な感じでしたが、そこにじっとしていると、体が冷えてしまいそうな涼しさが感じられました。そこの空気が変化していることは、見た目ではわかりません。しかし、そこに人が群がったり、誰かが立ち止まったりしている様子はなくなったように見えました。
 次に私がマスクごしにむせた場所へ行ってみました。すると、左右に食料品を陳列していた移動棚が全部なくなって、通路の幅が以前の倍以上に広くなっていました。風通しが良くなると同時に、一定時間内に以前と同人数のお客さんがそこを通っても、それぞれがバラバラのルートでその通路を通り抜けることになるので、マスクごしに咳き込むお客さんがいなくなったように見えました。現に、私もそこをその後に何度か通ってみましたが、全然マスクごしにむせることがなくなりました。
 以上のようなお店の中の変貌は、一体何を意味しているのでしょうか。私は、そこにこのお店のスタッフたちの隠れた努力を推理・推測いたします。前にも書きましたように、真相のすべては社外秘で、公表はされていません。がしかし、大事なことは、事の真偽に関わらず、多くの人に共有されるべきだと私は考えます。ここには、私たちが見習うべき2つの点があると考えられます。一つは、リスクを見つける方法であり、もう一つは、リスクへ対処する方法です。「そんなことは、誰にだってわかっている。だから、今さら学んでも仕方がない。」とおっしゃられる皆様方に、「ならば真似してみるといいですよ。」と私は申したいのです。
 現時点では「新型コロナウィルスの存在を確実に知るためには、PCR検査(あるいはPCR法)によるしかほかに方法はない。」と言われています。そういう内容の論文もあるくらい、そのことは信じられています。しかし、(新型コロナウィルスが存在するかどうかはわからないものの)ウィルスか何かの微粒子あるいは病原体の存在を知る方法はあると思います。人間がむせたり咳き込んだりするという現象です。誰もが、何の原因もなしに急にむせたり咳き込んだりするわけはありません。現に、私たちは、そばで咳き込んだりする人の姿に、感染症の疑いを持ったり、感染させられるかもしれないと怖がっています。
 すなわち、店舗の敷地内で、お客さんのむせたり咳き込んだりする姿を、防犯カメラの監視システムを使って、モニタリングしたり記録したりします。そうすることによって、(新型コロナウィルスが存在するかどうかはわからないものの)ウィルスか何かの微粒子あるいは病原体の存在を突きとめることが可能になります。「新型コロナウィルス自身があるかどうかはわからないから、そんなことは意味がない。」という意見があると思います。けれども、新型コロナウィルスだけが、ほかのウィルスや病原体とは全く別の空間や環境を経路にして、人間に感染するわけではありません。実際、そんな事実は発見されていません。接触感染や飛沫感染の対策と同じように「新型コロナウィルスがその空間や環境に含まれている」と考えて支障がないと思います。それに、こうしたチェックを、感染症が流行する前や蔓延する前にやっておくことは、十分な備えとなります。
 しかし、それだけで終わらないのが、さらに大切なのです。店舗内のお客さんを防犯カメラで監視して、注意や命令で従わせるというわけではありません。見つけたリスクに対する、お店の対処法で立派なのは「直接お客さん(人)に行動変容を促すのではなくて、店舗内(の物品)を徹底的に管理する。」ということでした。店のお願いを守って来店してくれるお客さんにストレスを与えずに、そのマスクごしに咳き込む姿を、時間的および空間的にチェックします。そこで、感染者の犯人さがしをするのではなくて、店舗内で3密のリスクがある箇所を見つけるために、監視システムを使っているのがスゴイところだと思います。おそらく私がマスクごしに咳き込んが姿も、防犯カメラでばっちしチェックされていたことでしょう。これも推測ですが、3密のリスクがあると特定された店舗内の箇所は、店長をはじめとする店舗スタッフによって、どうしたら3密を避けられるか話し合われたはずです。夜にお店を閉めた後で現場検証をして、店舗内の商品や備品や設備を移動させたり、通気を良くさせたり、防犯カメラの死角や、3密の死角を徹底的に失くすという努力を日々行ってきた形跡があります。お店側の責任において、店舗の敷地内の全ての物を監視し管理していることが推測されます。彼らが、どうしてそこまでやるのか、ということが一番重要な点だと、私は思うのです。
 こうしたお店では、食料を買い求めてどうしても人が集まります。人は食べ物がなくなると、生きてはいけません。『食のインフラ』という言葉もそこから生まれてきます。しかし、そこでクラスターが発生したり、多くの人が体調を悪くしたならば、お客さんの足も遠のくし、地元での営業も続けていけません。そこで、そのお店では『地元のスーパーマーケット』として多くの人々に認識してもらえるように、感染症予防対策を徹底的にやる、そして、やれることはやる、という方針なんだと思います。私には、そのお店には、口先だけではない、実(じつ)があると思いますが、皆様方はどう思われるでしょうか。その問いを各人に期限のない宿題として、今回のお話の幕を閉じたいと思います。

 

ちょっと気になったこと

 今回は、テレビを見ていて、ちょっと気になったことがあったので、ちょっと述べておきます。街中に意外と多く人が出ているというニュースを観ていて、その事実にではなく、人々の意識に疑問を持ちました。それに対して「たるんでいる」「意識が緩んでいる」という多くのコメントがありますが、実は「気がついていない」のではないか、というのが私の意見です。悪い人に情報が渡って悪用される危険があるものの、この際、一都三県の緊急事態宣言に便乗して、大事なことを指摘したいと思います。
 私たち日本人は、テレビのニュースなどで街中の人手の様子を観ています。マスメディアの取材カメラを通じてそれを知ることができます。普通に考えてみて、街中の様子をモニターしているのは、そうした数の限られた取材カメラだけのように、感じられているかもしれません。しかし、実は違います。街頭や店舗内に設置されている意外と数の多い防犯用の監視カメラのことは、ほとんど気がつかれていません。それらの多くの防犯カメラにどこでもいつでも監視されていることに気がついていない人が多いことに、私は不思議さを覚えずにはいられなかったのです。
 よく日本に滞在している外国の人が「日本は自由で安全な国だ。」とおっしゃられています。かつての外国人観光客たちも、同じような意識で訪日されていたことでしょう。しかし、それはあくまでも表向きのことであり、その裏は違います。表だっては明らかにされていませんが、あちらこちらの防犯カメラが監視しているのは事実だと思います。私たち一人一人も、これを機に、少しは警戒して、我が身をあんじて外出を控えた方がいいのかもしれません。
 これは常識ですが、防犯カメラは、万引きの防止や不審者のチェックに使われます。したがって、マスクをしていても、咳き込んだり、むせたりした人の姿をモニターして、データに記録することは普通に行われています。「あのお客さん、今日も来ているな。」などということは、あえて店頭に立たなくてもモニターで監視していれば、簡単に識別できることです。プライバシー保護のため、悪用はされないとしても、知らず知らずのうちに一挙手一投足が見張られていることは事実だと思います。特に店舗内にはお気をつけ下さい。防犯カメラの設置は違法ではありません。これは、私たちの意識の問題であり、「気がついているか、そうでないか」の問題であることを再度指摘させていただきます。
 なぜ、このようなことを話として持ち出したのか、その意図について申しますと、実はそうした行動制限につながることのためではありませんでした。このコロナ禍(か)で、コロナに翻弄(ほんろう)される世の中にあっても、防犯カメラの監視システムを利用して3密の回避策をやっている事例があるということを、私は知っています。それは、そのお店の社外秘なので、事実の経緯は公開されていません。しかし、私にはたやすく推理・推測ができました。(もちろん、絵空事(えそらごと)だと笑っていただいて結構です。フィクションだと信じていただかなくても結構です。)
 日頃の準備や心掛けがいかに大切か、ということを多くの人にわかっていただきたいという意図のもと、あえて、そのお店のお客の一人としての私の体験とその推測という形で、次回のブログ記事にその事例を記述しておきます。そして、いかなる場合であっても「遅きに失した」と相手を批難ばかりする人は、「いつまで経っても進歩のない人である。」ということを各人で反省していただきたいと思っております。

 

3密を検証する その1

 毎日テレビを観ていると、数字やグラフ図ばかりが目に入ります。よっぽど私たちは数字や数値計算やグラフ図が好きな人が多いみたいなので、H大学の文学部を卒業した(つまり、文学士の称号を持つ)私も、そのトレンドに従ってみました。
 生きている複数の人間がいる空間を仮に考えてみます。生きている人間の体は、呼吸によってウィルスなどを出し入れしていると仮定します。各人の吐き出す息に含まれるウィルス量それぞれをXとし、その中の一人の人間が吸い込むウィルス量をYとします。すると、

 Y < Σ Xi (ただし、X > 0)という関係が成り立ちます。

 この関係を日本語で表すと、「一人の人間が吸い込むウィルス量の最大は、同じ空間の中にいる複数の人間が吐き出すウィルス量の総和になる。」というふうになります。
 その空間に、生きて呼吸をしている人間が何人いたら、息を吸い込む人間が危険になるのかどうかは、この計算式からはわかりません。けれども、その人数が増えて多くなればなるほど、彼らから吐き出されるウィルス量の総和が大きくなるのは、この計算式から誰でも理解できると思います。(もちろん、その空間の中に新型コロナウィルスが存在するのかどうかはわからないという前提で話を進めています。)
 密集・密接・密閉という『3密』のうち、人間が密集すればするほど、その中で一人一人が吸い込む(つまり、さらされる)ウィルス量が増えることは、上の式から明らかだと思います。さらに、密接な会合や空間の密閉は、上の式の左辺と右辺の値を限りなく近づけます。つまり、「Y=ΣXi」の関数の示す状態に限りなく近づきます。その状態を、平たく日本語で言えば「人から人へ伝わりやすくなる。」ということになります。
 また、この『ウィルス量の総和』という考え方は、かなり融通が利きます。例えば、通気のない(あるいは、通気の悪い)密閉空間内で、人間の吐き出したウィルスが消滅しないで残る(つまり、ウィルス量が減らない)ものとすると、次のように考えてみることができます。その空間にたまるウィルス量は、複数の人間が一定のH時間同時にいた場合((Σ Xi) x H)と、彼らそれぞれが順番に一定のH時間ずついた場合(Σ XiHi)とでは、ほぼ同じと考えてよいと思います。ちなみに、上の関係を計算式でおしゃれに示すならば、

 (Σ Xi) x H = Σ XiHi (ただし、H = Hi)といったところでしょう。

 人がさらされるウィルス量の面から見れば、その場にいる人数が少なく見えても、その時間が長くなれば長くなるほど、それよりも多くの人数が一定時間内にいるのと同じになります。いずれにしても、目に見えないほど微小で軽微なウィルスのようなものは、屋内の風通しを良くしたり、定期的な窓開けなどの通気によって、屋外へ押し流してしまうことが、一番良い対処方法だということになります。

 「だから、なんだ。」と言われるかもしれません。「人間は、呼吸も飲食もしてはいけないというのか。それでは、生きていけないではないか。」とか「それじゃあ、感染防止対策なんて、いくら徹底したところで、人と人との接触があるかぎりムダではないのか。」とか「こんな理屈は意味がない。なぜならば、誰でも、わかりきっている当たり前のことだ。」とか「どうしたらいいかの答えになっていないし、何の対策にも解決策にもなっていない。」とか「他人の意識を変えることへの何の役にも立っていない。机上の空論だ。」などということになります。それらの意見を、すべて私は否定しません。まさに、その通りなのです。むしろ、こんなことで、いちいち危機感を持っていただいては逆に困ります。あえて私がそんな理屈を持ち出したのは、少し視点を変えて、これまでとは次元の違う考え方があるということを知っていただくためなのです。
  私たちのほとんどは、これまで、新型コロナウィルスのような感染症を経験していなかったために、このような理屈や計算を日常生活の中でしたことがありませんでした。会合を開く時に人数制限が必要だと、感染症の専門家さんに指摘されて、その指示に素直に従いました。その場所(空間)の広さからソーシャルディスタンス(あるいはフィジカルディスタンス)を互いに守れる人数を決めたり、あるいは、各人のマスク着用を義務付けたりという感染防止対策を決めたりしました。しかし、そもそもどうして、そうするとよいのか、なぜそうなのかということを一歩踏み込んで考える人は少なかったと思います。それは、密集・密接・密閉という『3密』を回避するためだと、誰もが答えます。それでは、その『3密』って、一体どういうことなのでしょうか。「『3密』は『3密』だ。国や専門家さんが、『3密』に当てはまる場所は、感染リスクが高いと言っているから、それに従わないといけないのだ。」という意見が多数を占めることになります。その結果私たちの多くは、「人が多くて密集している場所が『密』で危険だ。」と、いとも簡単に答えを出してしまうわけです。
 「いつでも、答え一発。結果オーライだから、それでいいじゃないか。」と誰もが言うかもしれません。しかし、少なくとも私は、結果オーライを求めてはいません。私たちは、何かで成功したと思うと、その成功感が忘れられなくて、批判や検証をなおざりにしがちです。そんな面倒なことをしているヒマは無いと、誰もが先を急ぎます。失敗に対する批判や検証は十分すぎるくせに、こと結果オーライの案件については、「成功した過去の『立派な』経験を疑うのは失礼だ。そこには、弱点や盲点は絶対に無い。」とタカをくくって、それを完璧だったとみなしたがります。最近の例で言えば「新型コロナウィルスを封じ込めた。」などというメッセージを伴う処々の案件なんかは、すべてそうです。
 したがって、それは、間違った経験則を生みやすいと思います。私が求めているのは、自然のメカニズム(つまり、自然則)を知ることです。仮にそれが、人間の力ではどうすることもできず、人間の側が失敗ばかりだったとしても、それを知ることには価値があります。私たち人間が、それを完璧に回避できず、それに対して徹底的な対策がとれないとしても、その何らかのメカニズムがあることを知るだけでもいいのです。そして、それを解釈あるいは理解することによって、私たちの多くはその法則性に納得すると思います。人間社会的な解決策としてではなくて、自然と向き合う心構えや心の準備として『3密の回避』というものを理解し直してほしいと思います。それとは逆に「何なのか、よく見えないし、確認できない。」とか「何だかよくわからない。」あるいは「突きつめて考えてみると、結局どういうことだか、どうしていいのか、わからない。」といったことが、現状と向き合えない本当の理由であり、一番の不安であり恐怖なのです。

3密回避策に立ちはだかる2つの障壁

 テレビの街頭インタビューを観ていたら、「マスク・手洗い・3密をしっかり守っているのに、これ以上どうしたらいいのでしょう。」という意見の奥様がいらっしゃいました。ごもっとも、そのとおりだと思います。しかし、念を押して私は申しますが、本当にそうなのでしょうか。模範解答が多い優等生の皆様のおっしゃることをいちいち疑う私は、へそ曲がりなのでしょうか。常識を疑うということが、そんなに悪いことなのでしょうか。
 エジソンアインシュタインなどの伝記を読むと、次のようなエピソードに出くわします。子供時代に学校で初歩的なことを学ばされた時に、どうしても呑み込みが悪くて、教師から「何て頭の悪い子なんですか。」と保護者の親が叱られた、という話です。そのエピソードの真偽のほどは不明です。その後の偉大な業績を考えると、多分そうだったんじゃないかなという憶測に基づくエピソードなのかもしれません。そうだとしても、このようなことが私には、意外に参考になって役に立ちます。「1たす1が、どうして2になるのか。」という質問を受けて、「世間でみんなそう言っているから。」とか「算数のルールとしてそう決まっているから。」とかいう以外に明確な答えが無いのが皆様の置かれている現状です。多くの皆様がそれを当たり前だと考えていることと思います。私の今回のブログ記事を読んでいただければ、それ以外にも正解の可能性があることがわかります。今回は、3密回避策に立ちはだかる2つの障壁から、その正解にたどりつける糸口を思索してみましょう。
 一つは、3密のうちの『通気の悪い、密閉空間』に関する、現代の私たち日本人にとって致命的な情報です。かつての私たち日本人のほとんどは、木造家屋に住んでいました。しかし、地震や台風・洪水などの度重なる天災を経験していくうちに、木造家屋の再建を断念して、堅固な建物に改築するようになりました。それに呼応して、エネルギー効率の良い家屋が多くなりました。
 かつて、木の柱、木の梁、土の塗り壁によって構成されていた木造建築では、部屋中すきま風が吹いていました。言い換えれば、窓などを開けなくても、自然に通気がされていたのです。一方、現代の日本では、家の中をほぼ完全に密閉することによって、夏は冷房の効きを良くし、冬は暖房の効きを良くしています。つまり、現代的な家屋では、冷暖房のエネルギー効率が密閉された空間では良くなって省エネが実現できています。これが、現代の私たちの生活の常識となっています。
 しかし、残念なことに、その私たちの生活の常識そのものが、家庭内感染を引き起こしやすくし、飲食店での感染をしやすくして、新型コロナウィルスの感染を拡大させているのです。現代的な家屋は、密閉型家屋が多いため、家庭内で感染拡大を防ぐことは困難です。せいぜい、室内空気のこまめな換気をするしか手がないというわけです。そうなると、家庭外での飲食で感染するリスクを減らすしかなく、そのしわ寄せが飲食店の時短につながっているというわけです。飲食店も、密閉式家屋が多いことに変わりはなく、屋内空気のこまめな換気が必要です。感染症の専門家さんがチェックしてみると、それがうまく行っているお店はあります。しかし、問題は、地下やビルの建造上・構造上の理由で、窓が無かったり、窓や換気扇があっても十分な通気ができなくて、冷暖房の効きは良くても密閉空間が解消されず、人がウィルスにさらされる量を減らすことができない(その詳細は、後で3密の検証の中で述べます。)ので、感染が止められません。以上のように、私は、現時点の状況を分析しております。つまり、現代的な日本の家屋が、密閉空間になりやすく、家庭内と飲食店から感染拡大が起こりやすいという、構造的な問題があります。構造的な問題なので、簡単には解決できません。
 だから、どうにもならないし仕方がないじゃないか、という意見が上からでも下からでもあります。私は、過去の「仕方がなかった」に責任を追及するつもりはありません。そんなことをしても、何の役にも立ちません。現在から未来にかけて「仕方がないから何もしない」のは無責任だと言っているのです。これまでの常識では、にっちもさっちも行かないかもしれません。けれども、こんな時こそ、失敗しても仕方がないかもしれませんが、これまでの常識を捨てることによって、名案を見つける努力をしてみてよいと思います。大家さんに許可をいただいて、家屋の壁に風穴を開けた飲食店の例がありましたが、それに対する感染症の専門家さんからの評価はある程度妥当だったと言えましょう。構造的にどうにもならないことでも、柔軟な発想で乗り切れることがあります。だから本当のことを言うと、上からの強制ができないのは、完璧な正解が無いからです。「国のトップが甘いから強制力がない。」という短絡的な意見やコメントこそ、大衆の無気力で無責任な発言と言えましょう。
 ちなみに、私の住んでいるアパート間取り1Kでは『すきま風作戦』を実施しております。密閉型の部屋であるにもかかわらず、夏を換気で涼しくするために、北側にある玄関の上に、開閉式の小窓が付いています。その小窓が、閉めても閉めても、冬の北風で空いてしまい、冷たい空気が自動的に入ってきます。欠陥と言えば欠陥なのですが、部屋を閉め切って暖房で温めることをしたことがない私は、修理が不要と判断しました。その玄関の反対側にある南の壁には、冷暖房のダクトを通すための穴が塞(ふさ)がれていましたが、そこに指が1本入るだけの穴が開いていました。おそらく、私の前にこの部屋に住んでいた人が開けた穴だったのでしょう。外からの空気が24時間をかけて自然に少しずつ流れているようです。火の用心のために暖房器具を使わず、冬は重ね着・厚着を駆使して、それでも寒い時は、布団に潜りこんでいます。
 そもそも、私の東京の実家が時代に取り残された木造家屋でした。そんな場所で生まれ育って生活していましたから、私はそういう生活に慣れていたのです。私の東京の実家では、今でも、ガスストーブやコタツをつけても、部屋中が温まることはなくて、必ずどこからかすきま風が吹いてきて寒いです。住みにくい家で、これまでは、現代風に冷暖房が効く家がうらやましい、というのが私の実感でした。
 さて、一つ目の障壁についてはここまでにして、もう一つの障壁について述べましょう。当初から、新型コロナウィルスの感染は、接触感染と飛沫感染だけで空気感染はない、と言われてきました。つまり、「このウィルスは空気感染は無い。」という知識情報がありました。新型コロナウィルスに恐怖を抱いていた私たちの多くは、そのことを聞いて安心してしまい、それ以来、その知識情報に縛られることになってしまいました。すなわち、空気感染やエアロゾル感染の可能性というものを全く考えなくなってしまいました。すなわち、それは致命的な盲点を自ら作ってしまったのです。
 空気感染と同じような意味の『飛沫核感染』という言葉を全く知らない人も多いと思います。余計な情報や知識と思われるかもしれません。念のために知っておく程度の情報や知識と考えていいのかもしれません。しかし、原因がよくわからない感染拡大を理解するためには、これまで常識としていたことが当てはまらないことが現実に起こっていると気づくべきです。「そんなことくらい何ともない。」と、何の検討や思索や議論も無く、それをあたかも無いかのように見逃してしまうのは、例えば、風邪をこじらせて、症状の急変や重症化につながることなどで、私たちがしばしば経験してきたことだと思います。ムダだとわかっていても、それを検討すること自体はムダではないことが多いものです。
 ここは、まず常識を疑うことから始めます。ただし、「常識を疑う」というと、特に文科系の人たちは「常識を否定する」という意味にとってしまう危険があります。今ある常識に一つでも当てはまらない例が見つかると、その常識を全面的に否定して、新たな常識を作るべく一から始めるという時間の浪費をやりがちです。それによる対処の遅れは新たな致命傷となります。これまでどおりの常識でうまく行く部分はそのままにして、これまでの常識では通用しない部分を改善していくことが望まれます。何でもこれまでのルール(常識)でうまく行くのであれば、誰も苦労はしないし、何も問題は起きません。しかし、少なくとも、現実は、私たちの生活はそうではありません。必ず苦労はあるし、必ず問題は起きます。
 したがって、「常識に従う」ことは模範優等生的ではありますが、それが常に正しいとは限りません。考えや思いが行き詰って、「これまでこんなに努力してきたのに、これ以上何をしたらいいのか」がわからない、ということになるのです。大切なのは、自身のわからなかったこと、すなわち盲点に気づくことであり、中途半端に理解しないことです。寄り道して苦労や失敗をしても、自身の頭で考え抜けることが本当の幸せにつながるのかもしれません。(私の3密の検証は、少し話が変わるので、またまた次回に回します。)

ネットで話題の今一押しの説明書

 現在私は一人暮らしで、奥さんも子供もいませんし、ましてや、彼女もいないので、クリスマス・イブのことを忘れていました。小春日和の日中に田んぼの土起こしを3時間ほどやって、くたびれたので夜は、寝正月ならぬ寝クリスマスでした。朝のニュースで、昨晩の東京の様子を見て、びっくりしました。感染症予防のために何をしたらいいのかわからない、『迷える子羊』が都会には多いのだな、と感じました。私は教会の牧師さんではありませんが、微力ながら何かできないかと考えました。(そんなわけで、3密で私が何をどのように理解したのかは次回のブログ記事にまわすことにしました。)

 私が住んでいる地元では、今から半年前からJA(前農協)のコイン精米所のガラス戸の入り口に、A2サイズの張り紙が2枚貼られています。「営業をやめろ。」などという自粛警察の心無い貼り紙ではありません。私の地元の、JA信州うえだ安全衛生委員会の仕業(しわざ)でした。「新型コロナ正しい対策を」というスローガンに基づいて、感染症対策のいろはをイラスト入りの貼り紙で、無人のコイン精米所の一般利用者に見てもらおうというアイデアです。

 その貼り紙2枚の内容は、実は、ネット上で同じものを見ることができます。貼り紙の右下端の欄には、『JA信州うえだ安全衛生委員会』と記されていますが、貼り紙の右上端には、『諏訪中央病院 ホームページより』と記されていました。そこで、諏訪中央病院のホームページを見てみると、『新型コロナウィルス感染をのりこえるための説明書』という一連のPDF文書がありました。その『要約版1』と『要約版2』を、JA信州うえだ衛生委員会がA2サイズの紙にプリントアウトして、無人コイン精米所の入り口に掲示したというものだったのです。

 実は、私はそのイラスト説明書を見て、ソーシャル・ディスタンスの有用性を学びました。また、そのイラスト説明書の、飛沫核感染(つまり、空気感染)やエアロゾル感染のイラスト説明を見ると、家庭やお店で空気の入れ替えがいかに大切か、ということがわかります。これらのイラスト説明を基礎知識にして思索を進めれば、例えば、飲食店の時短営業がなぜ必要なのか、ということが科学的に根拠があって理解できます。(その辺は、のちのち私からも説明いたしましょう。文科系の人は、どうしても心意気(こころいき)や掛け声だけになってしまいがちです。迷える人たちには、わかりやすくて論理的・科学的な説明が必要だと、私は考えています。)

 このホームページの説明書は、イラスト入りでネット上でも話題になっています。気軽に見て理解して、頭と心を豊かにしてもらいたいな、と私は希望しています。

 

WHOのコロナ回避策を逆翻訳する

 最初に、またまた、わたくし事で心苦しいのですが、先日の日曜日の夜に、東京の実家へ電話して、この年末年始は東京の実家への帰省は控えたいと告げて、そのことについて私の母に同意を取らせていただきました。わたくし自身は、感染症にそれほど恐怖心はないものの、高齢の母がメディアの影響でかなり恐怖心を植えつけられており、私に対して気を使って体調を更に悪くしてしまう怖れがありました。そこで、この年末年始は東京の実家に帰らないことにしたのですが、実は本心では「しめしめ、うまくいった!」と思っていました。私は、東京に生まれ育って仕事をしてきた『元東京都民』です。だから、元東京都民として小池都知事には協力いたしますが、私は家族とはそれほど仲が良くないので、「家族とステイホーム」には反対させていただきます。これまでは、何かと個人的な用事があって、年末年始に東京に戻っていました。しかるに、この年末年始は、東京から帰省する人が少ないとテレビのニュースで知って、東京では密な場所が増えそうな感じがしました。それが理知的な判断なのか、ただ私が理屈っぽいだけなのかはわかりませんが、いろんな要因で東京の空気自体も悪そうなので、私は戻りづらくなりました。(東京の実家へは、年賀状でも出しておこうかな、と思いました。)
 それよりも、現在生活している地元で、私自身の体と心のケアに努めようと考えています。最近のテレビでは、ストレッチ体操とかヨガの簡単なポーズをニュース情報番組中でよく見かけます。やはり、最近は心身に不安がある人が増えてきているのかな、と感じさせます。そう言えば、小春日和の日中に、屋外で短時間の作業をしていると、ジョギングをしている人を全然見かけなくなりました。やはり、激しい運動は、過呼吸となって、何らかの病原体を吸い込みやすくなって体調を崩してしまうのかな、と考えられました。その点、ストレッチ体操やヨガの簡単なポーズは、日常を静かに過ごす私たちの心身のケアに有効な一つの方法なのかもしれません。
 そんなこんなで考えているうちに、私は、WHOのコロナ回避策の英文をネットで見つけました。その前に、日本の『3密』の翻訳版である『3C』というものをWHOが示しているということをテレビで知りました。その3CというWHOのコロナ回避策を、日本の『3密』と比べてみたくなったので、誠に勝手ながらその英文の主要部分を私は日本語に翻訳してみようと思いつきました。以下にそれを示します。重要な部分は、英文の語句も併記しました。

 Avoid the Three Cs (『3つのCを避ける』)
 ― 様々な場面や状況で様々なレベルのリスクに気付きましょう ―

 新型コロナウィルス(COVID-19)が広がりやすい場は次の通りです。
Crowded places (多くの)人が(間近に)密集する場所
Close-contact settings (特に人々が親密に会話する場などの)密接な場面や状況
Confined and enclosed spaces (通気の悪い)狭くて閉鎖された空間

 これらの3つの要因が重なる場では、さらにリスクが高くなることや、その場に行くのを控えたり、それらの要因を回避・除去するための対策をとってその場の安全を確保することも示されています。

 確かに、その内容を私たち日本人が見るかぎりでは、何も目新しいことは無いのかもしれません。しかし、この『3密』の考え方が日本で発表されて、日本国内でどんな反響が起きたのかを知る人は少なかったと言えます。私たち日本国民のほとんどは、功利主義的な立場からこの考え方をいち早く取り入れました。悪く言えば、無批判で鵜呑みにしました。そのため、「3密を避ければ、絶対に感染しない。」あるいは「3密を避けなかったから、感染したんだ。」と平気で言うようになってしまったのです。
 もちろん、それで結果オーライでしたから、功利主義的なほとんどの日本人にとっては大成功だったと言えます。しかし問題なのは、そのために、私たち日本人は、この感染症に関する思索を発展させることができなくなってしまった、ということなのです。この感染症に関するいろんな問題が発生すると、その一つ一つに答えを見い出せず、誰に聞いても「まだそれはわからない。」という無限列車にいつまでも乗車してしまうことになりました。そして、その一方で、数限りない外部からの情報にさらされて惑わされて、何一つの確たる思索も判断もできず、ただ情報の伝達ばかりして、様子見ばかりしているのが今日の私たち日本人ほとんどの姿だと言えましょう。
 かのアメリカのエジソンがおっしゃられていたように「1パーセントのインスピレーション」には「99パーセントのパースピレーション」が必ず伴うものならば、功利主義的な私たち日本人は、「99パーセントのパースピレーション」を、とかく省きがちです。インスピレーション(ひらめき)ばかりを求めて、パースピレーション(汗と苦労と失敗)はなるだけ避けて、それが賢いと思い込んでいるのが今日の私たちの姿と言えましょう。もう少し何とかならないかな、と私は思っています。
 その改善策になってくれるかどうかはわかりませんが、私は一つの事実を示したいと思います。前述の『3密』が初めて発表されて、日本各地の感染症の専門家さんたちの中に、「今までこんな考え方があるとは知らなかった。けれども、このような考え方があることを知って、なるほどと思った。」という意見の人がいらしたのだそうです。これまで感染症を専門としてきたその人が、この『3密』という考え方を知って、その上手い考えを学んで、称賛したということなのです。私は、そのようなことを語るその道の専門家さんをテレビで拝見して、本当に驚きました。そして、私は私なりに考えてみたのですが、この『3密』という科学的知識は、単なる経験則で考えられたものではなくて、科学的あるいは現代数学的な思索によって生み出された(といっても、ごくシンプルな思索による)ものだと私は理解できました。それを理解するためのキーワードは、『ウィルスの曝露(ばくろ)量』すなわち『人がウィルスにさらされる量』です。そのことの詳細は、次回のブログ記事に記載いたしましょう。