グレーな状況、グレーな質問

 前回の私のブログ記事はやや概要説明となってしまいました。そこで、今回は、より具体的に文系と理系の発想の違いについて述べていきましょう。(話の中心が、やや文系の発想寄りになってしまうことを、前もってお許し願います。)
 最近テレビで『行動変容』とか『新しい生活様式への移行』という言葉を知りました。しかし、そうした言葉を聞いて、どうやってそれを実現したらいいのか困惑している人も多いと思います。特に、文系的な(帰納的な)発想を多くする人にとって、あれもこれも『行動変容』しようとすると、何をどうやってどうすればいいのかを、一つ一つの事実や事例について検討しなければならず、それらが全て矛盾がないように調整や統一をして、全体的な『行動変容』というイメージを獲得しなければならないようです。しかも、一つでもその築き上げた全体イメージに反する事実や事例が見つかると、『行動変容』ができなかったと判断して、その全体の傾向を捨て去って、一つ一つの事実や事例の洗い直しを一から始めなければならないようです。そのような作業にかける労力を何度もおこなわなければならなくなると、「いい加減にしてくれ。」と投げ出したり、ストレスがたまったりします。
 しかし、これは私の意見ですが、『行動変容』とか『新しい生活様式への移行』という言葉で専門家さんたちが求めていることは、そういうことではないと思います。あれもこれも全ての生活行動を変えよとは誰も言っていませんし、全ての生活様式を変革して一新せよとも誰も言ってはいません。しかし、文系的な(帰納的な)発想をする人からすれば、『変容』とか『新しい生活様式』という言葉は「天地がひっくり返るような、完全な変革をしなければならない」というニュアンスにとってしまいがちです。これは問題だなと思い、私は今回も筆をとった次第です。
 専門家の方々や行政の方々がどんなに具体例を示して下さっても、そのような先入観がおそらくできてしまうと、残念ながら元の木阿弥(もくあみ)になりそうな危険(リスク)も出てきそうです。そこで、そうではないのだと、私の具体的体験から説明したいと思います。もう20数年も前のことなのですが、その頃の私はサラリーマンでした。東上野にあった会社に通勤していました。最寄りの駅は、地下鉄日比谷線入谷駅でした。けれども、通勤電車は毎日満員電車でした。それまでの私はぎゅうぎゅう詰めの車内がイヤで仕方がありませんでした。何年間も我慢をしていたのですが、不意に女性の体に手が触れて、痴漢と間違えられはしないかとビクビクしていました。
 ところが、ある時、自宅の前の停留場にとまっている浅草行きの都営バスに気がつきました。電車で行くよりも30分早目に自宅を出て、そのバスに乗れば、同じ時間に東上野の会社に出勤できることを発見しました。道路の交通状態に左右されて、バスは地下鉄よりも、出勤に要する時間が不安定になりがちでしたが、満員電車のリスクよりも出勤時の遅刻リスクの方を受け入れることにしました。会社に遅刻しても、せいぜい10分か20分くらいの時間給を引かれるだけだと判断したわけです。電車の定期券の代わりに、バスの定期券を購入するようになりました。そうした行動変容のおかげで、地下鉄サリン事件に巻き込まれることが幸運にも避けられました。(あの日は、バスが入谷交差点の手前で一時ストップしましたが、地下鉄日比谷線の地上口近くにガスマスクと防護服の人たちが複数立っていたのを見てびっくりしたことを、私は今でもよく憶えています。)
 そこで、私は思うのですが、少しだけ発想を変えるだけで誰でも行動変容できて、新しい生活様式への移行もたやすくできると思うのです。すなわち、普段何気なしにやっていたことを、ちょっとだけチェンジしてみるだけでいいのです。帰宅してすぐ、何とはなしに手を洗ってみて、「これって、もしかして『行動変容』じゃないかな。」って軽く考えてみるとよいと思います。また、例えば家族4人みんなでスーパーマーケットに出かけていたことを変えてみて、大人の代表者一人と連れの一人を家族から選抜して、二人だけで出かけるとかすれば、従来とは違う『新しい生活様式への移行』をしたんだなと感じることができると思います。
 そのように「その場で気がついたら、ちょっとだけ生活上の工夫をしてみる」ということが肝心なのです。『行動変容』とか『新しい生活様式』とかいう言葉は、あくまでも原則であり、現実の世界でどのように行動しようかと迷った時に、よりどころにする言葉とすればよいのです。「これってそういうことだよね。」と現状にあわせて、ちょっとばかり言葉の一人歩きをさせても、いっこうに構わないと思います。一番大切なのは、白か黒か判断できないグレーな状況で、自ら「確からしい」判断ができるようになることなのです。誰が見ても白か黒かがわかっていることは、そう簡単には変えられません。やって良いことと悪いことを天秤にかけて、いちいち迷っていることは、結局「下手な考え、休むに似たり。」です。
 
 ところで、ある日のこと、多くの主婦が視聴しそうな情報番組を私はテレビで観ていました。すると、新型コロナウィルスに関する専門家さんへの質問コーナーが始まりました。おそらく一般の主婦からの多くの質問が来て、それにお医者さんなどの専門家さんが回答するという形式の、番組コーナーでした。質問の内容をいくつか聞いていると、ある傾向に私は気がつきました。いずれも、一つ一つの細かな事実や事例についての質問だということでした。基本的でおおまかな内容の質問だと、専門家さんに原則的な知識に基づいて白黒はっきりとした回答をされてしまいます。そこで、なるべく複雑で現実的な事例に基づいて、なるべく白黒判断がつけがたい、グレーな内容の質問が多いように、私には感じられました。
 例えば、その中の一つを示しましょう。「新型コロナウィルスは、下痢の症状を起こしますか。」という質問がありました。確かに、下痢の症状が必ずあるかは、症例はあるものの、現在症例を積み重ねている最中であり、まだ白黒はっきりと判断ができていません。つまり、まだ医学的知識として確立していない、グレーな内容の質問です。しかし、専門家のお医者さんは、ちゃんと回答してくれました。「下痢はある。」という回答でした。質問側(おそらく、文系的発想の側)は、いろんな複雑な知識や事実によって、新型コロナウィルスの感染による下痢症状がありうるのか、それとも、下痢症状があれば新型コロナウィルス感染症になったとわかるのか、などといろいろと頭の中で考えて、そのようなちょっとやそっとでは白か黒かの判断がつかないグレーな質問をしたのだと、想像されます。それに対して、回答側(おそらく、理系的発想の側)は、現在までにわかっている、症例の積み重ねと新型コロナウィルス自体の知識から、「下痢はある。」という妥当な答えを導き出したと、これも想像されました。「下痢があったら、新型コロナウィルス感染症だ。」とか「新型コロナウィルス感染症になったら、必ず下痢になる。」とは、お医者さんは回答していないことに注目していただきたいと思います。「新型コロナウィルス感染症で、下痢の症状を起こす人もいる。」という意味だと私は思いました。
 さらに、私は曲がりなりにも考えてみました。この病原体は、胃の中に入ると、そこから分泌される胃酸によって、基本的には死滅します。そして、その死骸が小腸と大腸を通って、吸収されたり排出されたりします。しかし、胃酸が十分にかからなかったり、水を飲み過ぎてその酸が薄められた状態だと、病原体が死滅せずに生き残って、胃腸の消化器官に悪さをして炎症などを引き起こします。すなわち、腹痛を起こして、下痢症状になると考えられます。また、消化器官にもともと炎症や出血の箇所がある場合に、病原体がそこに接触して腹痛を起こして、それも下痢症状になると考えられます。よって、「人によっては、下痢はある。」と言えるわけです。お医者さんの回答が、的確であることが確かめられると思います。
 
 おまけに、もう一つだけ話題を提供いたしましょう。私事(わたくしごと)ですが、これもまたある日の夜に、ニュース情報番組を観ていた時の話です。ある女性アナウンサーや男性のスポーツ選手が「みんなで一緒にこの難局を乗り切りましょう。」とそれぞれのコーナーで発言していました。それを私は何気なく観ていたのですが、ふと、次のような疑問が浮かびました。「え?どんな難局をどういうふうに乗り越えるのかな?」と、私はつい思ってしまったのです。
 そういえば、以前にも同じようなことがあったような気がいます。(そういう言い方は文系的な発想かもしれませんが…。)選挙の投票時期にたまたまテレビを観ていたところ、「みんなで今度投票する選挙の候補者について話せたらいいね。」とか「みんなで一緒に選挙に行きましょう。」などと、テレビで話す人がいるのを見つけました。私は何だかよくわからず、「あれっ?」と思いました。そうした人たちの発言が正しいか正しくないかは別として、何か変な感じが私にはしたのです。投票をする場所へ行くとわかりますが、一人ずつ整理券をチェックされて、個人ごとに間仕切りされた場所で投票用紙に記入して、個人の責任で一人ずつそれを投票箱に入れていきます。そうした『個人的』な状況が、「誰に投票したらいいかをみんなで一緒に話し合う。」とか「みんなで一緒に選挙に投票しに行く。」という主張やメッセージとマッチしていないと、ある意味へそ曲がりな私は感じていました。
 実は、私は文系出身の人間であるにもかかわらず、大学時代から文系らしからぬ生活をしていました。私の同級生はあまり授業に出てきていませんでした。その一方、私はその4年間に一度も授業をさぼったことがありませんでした。皆勤賞で、まるで理系の学生のように律義で細かい性格でした。同級生に頼まれて、授業でとっていたノートを見せたことはありましたが、逆に私から同級生にノートを見せてもらったことは一度もありませんでした。また、とある授業中に、同級生と討論する機会がありました。彼らの多くは全体のムードを大切にして話を進めていきます。一方、私は(刑事ドラマの観過ぎかもしれませんが)一つ一つの物証や実証に基づいて、話を進めていたようです。同じテーマを扱っても、見方が違いますから、意見が対立することが多かったと思います。
 要するに、私は文系の学生ではあったけれども、アウトローでした。当時H大学の公開講座で、コンピュータ実習や博物館学などの授業を受けに行くと、たまたま理系の講師や先生と出会いました。私は、そうした理系の講師や先生の授業が、どういうわけか好きで、授業時間が延びたりしても、結構熱心に授業を拝聴していました。
 ここまで、ざっと私の略歴の一部を述べてみましたが、きっと皆さんの多くは「『同じ文系の貉(むじな)』だと(私自身が)言っていたくせに…
。この嘘つきの、裏切り者。」と思われていることでしょう。事実、私があの女性アナウンサーや男性スポーツ選手と同じことを言おうとするならば「みんなが自粛をしてこの難局を乗り切ることが必要だ。」などと主張し表現してしまうと思います。きっとそれを聞いた大衆のほとんどは、「何か角(かど)が立つような、偉そうで冷たそうなイメージがある。」と私に対して感じてしまうことでしょう。そして、「ムードも何も無くて、そっけない。」と多くの人から批難(ひなん)を浴びることでしょう。何らかの前向きなムードやイメージを伴わない公共メッセージというものは、文系的な発想を持つ多くの人々の心には響かず、その本意は伝わりづらいものです。
 それでは、このへんで問題の種明かしをいたしましょう。前述の「みんなで一緒にこの苦難を乗り切りましょう。」とか「みんなで一緒に選挙に投票しに行きましょう。」というメッセージが伝えようとしている真意を、私はつかんでいませんでした。それゆえの誤解だったのです。つまり、その真意すなわち要点は「何をどうするか。」ということを具体的に伝えることではありません。そのメッセージが伝えたい要点は、実はそんなことではなくて、そういうムードをみんなが持つことが大切で、つまり、その「難局をみんなで乗り切ろう」という『前向きなムード』のことを言っているにすぎません。要するに、そういうふうなムードが大切だということを示しているにすぎなかったです。
 この言わば「もやっ」としたムードこそが、文系的な発想にとっては大事なのです。その背景となる「何をどうする」かは暗黙の了解であって、多くの場合はっきりとした明確な言葉や数字や数値になってはいません。それは依然として、グレーな状況のままなのかもしれません。にもかかわらず、大事なことは、みんながみんな、わかった気になっているということです。実はこれが、民衆の結集した力の正体なのです。それを何かに例えて言えば、文学作品としての深刻なイメージの『レ・ミゼラブル』というよりも、ミュージカル芸術作品としての力強いイメージの『レ・ミゼラブル』というようなものでしょう。(注・昔『ああ無情』という邦題で知られていたこの文学作品のタイトル『レ・ミゼラブル』とは、フランス語で「哀れな人々」という意味です。ミュージカルの「明るく前向き」な雰囲気・ムードとは裏腹に、もともとは、そのような意味の言葉であることを、お忘れなく。)

文系と理系、その発想の違い

 「世の中は、文系的な(帰納的な)発想を多くする人と、理系的な(演繹的な)発想を多くする人に分けられる。」こういうテーマで話をしてみたいと、私はつねづね思っていました。これは、毎日観ているテレビとか、過去に私が経験したこととかに大きく関わってくるテーマです。別に気にしなければ気にしないで済んでしまうことですが、気になると『とことん』気になることのようです。だから、それほど気にせず、「世の中には、そんなこともあるのかなあ。」とか「そんな見方もあるのかなあ。」くらいに気楽に考えて下さい。こんなことを私が気にして書いたとしても、そのことによる皆さんの何らかの行動変容を望んでいるわけではありません。今まで通り、サラッと見過ごして頂いて、いっこうにかまいません。もっとも、このことを少しでも知っていると『目から鱗(うろこ)』なのかもしれませんが…。(これから私が述べることには、異論や反論があると思います。私は、どんなにそれがあっても、それらを否定はいたしません。どうかご自由に考えてもらって構わないと思っております。)
 それでは、もう少し説明を進めましょう。文系的な発想をする人は、世の中一般に意外と多いと私は思います。私自身、素質も才能もない、何処にでもいるありふれた文学青年でしたし、H大学の文学部を卒業していますから、同じ穴の狢(むじな)です。したがって、どんな発想を普段しているのかは、わかっていたはずなのですが、あまりに普段それに慣れ過ぎていて、その特徴をあまり意識しないで生きてきました。そんな時、たまたま身近に理系の人がいて、反(そ)りが合わなくて文句を言われたり、違和感を指摘されたり、考えの違いを教えてくれました。
 個々の細かな事実や事例に目配りして、それをまとめ上げるのが、文系的な発想をする人の特徴です。まとめ上げたものを法則化あるいはルール化して、全体的なムードや流れを作り出します。つまり、帰納(きのう)的な考えであり発想です。そうやって、周りの人々の思いを共感させて、集団全体を動かしていくこともあります。テレビや新聞などのマスコミに、文系的な発想をする人がもともと多いのは、そういうことが理由としてあるからかもしれません。
 しかし、個々の細かな事実や事例の中から少しでも例外が出てきて、全体的なルールやムードが壊されたり成り立たなくなると、それをあっさり捨て去ってしまいます。そして、その時点でわかりうる個々の事実や事例に改めて目配りしながら、新たなルールやムードを模索しながら、新たな考えや流れに統一していきます。やはり、これも、帰納的な考え方の手法であり、発想法であると言えます。『改革』という言葉を好きな人が多いのはそのせいかもしれません。
 それでは、次に理系的な発想をする人はどうなのかを述べてみましょう。私は、基本的には文系の人間でしたが、先にも述べたように、理系出身の人から勉強や仕事の上で意見や苦言を聞く機会がありました。その意見や苦言に基づいて、私なりに学んだ理系的な発想をまとめてみました。
 基本的な原理や原則がまず頭にあって、そこから出発して考えが発展するのが、理系的な発想をする人の特徴です。最初に「確からしさの高い」ルールや法則があって、それに従い基づいて、個々の細かな事実や事例に対応します。それに成功すれば、その元になったルールや法則の『確からしさ』が増して、さらに応用範囲が広がって、考えやその成果が発展していきます。すなわち、それが演繹(えんえき)的な考え方であり、発想法なのです。文系の人から見ると「理系の人は何か信念をもっているらしい。」とか「何でも答えてくれる物知り博士だ。」と感じられることが多いようです。それは、理系的な発想をする人がそのような特徴を持っているから、そう見えて、そう感じられるためだと、私は思います。
 しかし、今までのルールや法則が成り立たない事実や事例が出てきた場合は、どうなるのでしょうか。文系の人から見ると心配になるところですが、実は心配ご無用です。理系の人は、そうしたことに出くわすと、これまでのルールや法則を一部修正して、これまで当てはまらなかった特異事例を当てはまるように丸め込んでしまうのです。そうして、これまで従ってきたルールや法則を捨て去ることなく、修正して『確からしさ』をさらに増したルールや法則に基づいて、考えを発展させ、そうしたルールや法則を適応できる世界を広げていきます。文系出身の人が余り得意としない、演繹的な考え方であり発想法です。そして、文系的な発想では到達ができない(ほとんどの人が思考の過程で挫折してしまう)ほどの、複雑で高度な、すなわち専門的な科学的知識を発展させることができるわけです。
 文系と理系、どちらの発想が優れているのかということですが、その優劣はつけがたいと思います。確かに、その発想の違いによって、考えや思いや意見のすれ違いはあるにしても、あるいは、その思い違いがちょっとおかしなことになっていたり、例えば肩すかしがあったとしても、私たちの日常ではそれほどお互い傷つかないで、うまくやってきているというのが現状だと、私は観察しています。
 今回は、その概要的な説明に終わってしまいましたが、実際には面白い事例がいっぱいあります。それについては、またの機会に日を改めて、私のブログ記事で書いていきたいと思っております。

足元の反省

 前回の私のブログ記事で「不要な外出は控える。(Stay home)」という感染症対策が社会的対策と個人的対策の二つの意味があると述べました。後者については、「個人が外に出る時に問題があるというよりも、外出することは必ず帰宅しなければならず、そのたんびに外から病原体を家の中に持ち帰ってしまうことが問題で、その可能性をできるだけ減らすことが大変だから、外出しないで家にいたほうがよい。」というふうに私は述べるつもりでした。
 ただし、「家にいる」とはいっても、家に特別にバリヤーみたいなものがあるからというわけでもなさそうです。窓を開けて空気を入れ替えるということも、家の中が密室にならないようにするために必要だというわけです。やはり一番の目的は、病原体からかけられる、呼吸器官の負担を少しでも軽減することが狙いと言えましょう。
 あと、これはあくまでも私の意見ですが、自宅などの家にいれば、急に体調が悪くなった場合に、床に臥(ふ)すなどの方法で、体を安静な状態に保つということがすぐにできると思います。家の外にいると、つい周りが気になってそれができない。具合が悪いと気がついても、周囲を気づかって我慢してしまいます。様々な手持ちの家財道具などを利用することもできず、ほとんど何も対処できない。先日、私の実家がある東京都足立区の路上で倒れて結局助からなかった60代の男性にしても、(家にいても結果は同じだったという考えは否定できませんが)家にいたら何か早目に対処できたかもしれません。(あくまでも可能性の上での話ですが。)
 これは、今になって自慢しても何にもならないことですが、今から1か月前に東京の実家の私の母に電話をした時に、地理的にどこが危ないかを示して、意味の無い移動をしないように頼んでみました。母にとっての故郷である長野県は犯人捜しで大変なのだと伝えて、現在住み慣れた場所にいることがご自身にとってベストであるとわかってもらいました。80代の高齢になると、少しでも生活場所を移動することが体の負担になることは、これまでも母がよく分かっていらっしゃることでした。その時に、私は「東京の足立区では、どこが心配か」ということを電話で伝えたのですが、今回の60代の男性の死亡で偶然にも見事的中してしまいました。(再度申しますが、私自身が命を奪われたならば、そんな的中は自慢にも何にもならなくなってしまうことなのですが。)
 話を元に戻しましょう。私がそのような『病原体の家への持ち帰り』ということに気づいた背景には、過去に大きな失敗をしたことがあったからです。今から10数年前、私は今の地元で就農をして毎日忙しい作業に追われていました。そして、毎日1Kの間取りの家に帰って、玄関で作業靴を脱いで、流しと風呂場(ユニットバス)の間の狭い通路の先の、奥の6畳間へ入ります。その間に、作業着や靴下を脱いで、普段着あるいは寝間着に着替えます。5月や6月になると、仕事が忙しくなって、直接、作業着から寝間着に着替えて寝てしまうことが2、3日間続きました。
 そのようにして3日間ほど過ぎた夜に、私は、布団の中の足元がねばねばしていると感じました。おかしいなと思って、次の朝になって布団をひっぺがしてみました。すると、足元の白い敷布と布団カバーが、黒ずんだり黄ばんだりして白いカビも生えていました。私はびっくりして、その敷布と布団カバーを洗濯機にかけて洗いました。普通の粉末洗剤を入れて洗った結果、黒ずみと黄ばみと白カビが落ちて、やっと私はほっとしました。
 それから、どうしてそんなことになったのかを反省してみました。東京に生まれ育って40年余り都会で生活をしていた私には、こうした経験をしたことがありませんでした。東京の実家が、町工場で自営業をやっていましたが、お風呂に入るのは3日間に一度でした。また、20代から20年間近く私はサラリーマンでしたが、社内勤務で忙しい時は1週間も風呂に入れない時もありました。「垢(あか)で人間は死ぬもんじゃないから。」と上司に言われて、仕事をさせられていました。
 ところが、仕事が変わって長野県で一人で就農した当時は、土からの見えないものに対して私は無警戒になっていました。泥などの汚れが体や手足に付着していなければ、何も問題がないと思っていたのです。生活上の衛生に対する意識が低かったことを、40代を過ぎて一人で生活するようになってから、改めて思い知ることとなりました。屋外で履(は)く靴下は、帰宅したらすぐに洗濯機へ入れていましたが、それでも十分ではありませんでした。すなわち、その足にゴム長靴や作業靴を履いていても、土からの何らかの微生物が、私の(足の裏や甲や足首などの)足元の皮膚に付着して、つまり、感染していたのです。「自然をなめてたなあ。」と私は反省しました。
 再び敷布や布団カバーが黒ずんだり黄ばんだり白いカビが生えないようにするために、私は次のような解決法を考えつきました。その日の作業が終わって帰宅したならば、玄関で作業靴を脱いで、さらに靴下と作業着と下着を脱いで、すぐに風呂場(ユニットバス)に入ります。頭からシャワーを浴びて、全身に石鹸を付けたら、ゴシゴシ洗わずにまたシャワーで洗い流します。そんな簡単なことを毎日習慣にするだけで、寝ていて足がねばねばするなどということはなくなりました。ついでに、風邪で体がだるくなるということも、以前よりも少なくなりました。私にとって、この方法は一定の効果があったように思えました。
 「燈台もと暗し」としばしば言われるように、誰でも手近な事情がかえってわかりにくいということがあるものです。私のように足元に注意を怠(おこた)って、大きな反省を後でしなければならない、という愚かなことだって珍しくはありません。そのようなことは、決して他人事(ひとごと)ではないのかもしれません。

 実を言いますと、先日の4月19日(日)に地元でちょっと怖ろしいことを経験しまして、その後の様子を経過観察していました。地元の街中で、左手からいきなり正体不明のおばあさんが現れて至近距離で「ゴホンッ」とやられてしまいました。そのおばあさんはマスクをしておらず、私の下半身は飛沫を浴びてしまいました。ズボンを脱いだり車で帰るためには、手を使わなくてはならず、家の外にいるとすぐに対処はできませんでした。帰宅して手を洗ったものの、もしかしたらそれまでに飛沫感染接触感染、および、両者の感染のミックスで結局、呼吸器官に病原体が運ばれてしまった可能性があります。
 しかし、それでもその私にとって見知らぬおばあさんが感染経路と決められない事実がありました。その日に、生活必需品を買おうとしてあるお店に入る前に、気分が少しだるくなりました。このだるさは何だろうと思いました。おそらく、人通りの多い場所はそこで「ゴホンッ」とやってしまう人が多いのかな、と感じました。屋外とはいえ、そういう場所でお店への入場制限があって並び続けなければならないとしたら、ちょっと心配に思えました。家に帰って落ち着いて考えてみたのですが、「もしそうなったら、別の機会にお店を利用することにして、いさぎよく決断してその場は撤退しよう。」と考えました。
 私は、一人暮らしのため、食べ物のやりくりは当然自分一人でやっています。冷蔵庫は小さいのですが、お米などの自給の部分があるので、食料品を買いに行く機会を減らすことができます。私のアイデアをそこに加味して「1週間に一回」の買い物を何とかやりくりしようと考えています。東京都の小池都知事が「3日に一回」とおっしゃられているのは、都会では妥当な発言だと思います。
 その日の夜、やっぱり体調がおかしいと思ったので、血圧計で測定したところ、やっぱり心拍数が通常よりも10~20高かったので警戒することになりました。せきなどの風邪症状もなく、熱も出ていないし、だるさも感じていないのに、何か変な感じがしました。早目に布団にもぐって様子を見ていました。すると、いつしか眠ってしまったのですが、いつもはかかない大量の寝汗をかいていることに気がつきました。4月2日の夜よりひどい寝汗の状態でした。用心のため、のど飴をなめていたのですが、胃の中で「グルルルル~」とか「ゴボッ」とか「ギャー」とかの異常な音が繰り返し発せられていました。胃腸が痛むことはなく、その時は腹を下している様子もなかったので、それは何かの微生物が悲鳴を上げているような感じでした。(これは、あくまでも私が想像したイメージであって、「微生物が本当に悲鳴をあげている」などという事実はなかったのかもしれません。)本当に滝が流れるような寝汗をかいたので、夜中に一回全部下着を着替えました。次の日の朝には、寝汗もおさまっていて、心拍数も下がって落ち着いていました。
 今回のことで、二つのことが身をもってわかりました。食べ物を外に買いに行く時は、どこへいつ買いに行ってはいけないかが少しわかった気がしました。もう一つは、私の場合、発熱症状や風邪症状などが出る前に、心拍数の上昇があるということです。実は、私の場合は、ここ数年の地元の定期検診で、血中のヘモグロビン量(赤血球数)が標準より下回っていると血液検査から診断されていました。そこで、かかりつけのお医者さんから、去年の12月に大腸の潜血検査を、今年の1月に胃カメラ検査を受けるよう指示されて、私は渋々それらの検査を受けました。その結果、胃腸に出血や炎症が見つからないということがわかりました。(それが、私自身の胃腸などの消化器官への過信にならないといいとは思いますが…。)
 その貧血の度合いが、血中酸素量と関連して心拍数が上がりやすくなっているとみることもできると思いました。何らかの病原体による感染症のために肺の機能が少しでも落ちると、息苦しさや発熱などの自覚症状がなくても、それらの症状が現れる前に、体が異常を敏感に察してしまうようなのです。したがって、私がとるべき対策は、作業中に心拍数が異常に上がったら、半日以内に(できればなるべく早く)作業を切り上げて、体を洗い、食事による栄養補給を短時間にして、布団にもぐりこんで、なるべく早めに体を安静にする、ということにしました。(もちろん、心拍数が下がったからといって、それを絶対的な安心材料にすることは間違っています。貧血症状に気をつけなければいけないことを、同時に私は体感しています。)
 世の中では、たかが風邪症状とか、たかが10万円と考える人がまだいるかもしれません。けれども、今回は「風邪は他人に移せば治る。」とか「10万円ぽっきりもらったところでどうにもならない。」とか考えないことです。決定的に効く薬とか免疫とかがない状態で感染症を甘く見たら命取りです。自身の命を取られたならば、その10万円でさえ受け取れないし、受け取る意味がなくなってしまうようです。何事も用心して、私自身の足元をよくよく注意して見ておくことが大切なようです。

 

「のど飴がコロナに効く」ってウソだけど…

 これも先日テレビのニュースで知った話ですが、女児誘拐の新しい手口(?)が発覚したとのことです。その男は、「コロナウィルスに効く『のど飴』をあげるよ。」と言って女児に近づこうとしたとのことでした。誘拐されそうになったとはいえ、結局大事には至らなかったようです。
 これは私の妄想ですが、その男は女児にのど飴をなめさせた後で「ほうら、のど飴をなめると、喉(のど)がスッキリして気持ちよくなっただろう。」などと言うつもりだったのでしょうか。想像の域とはいえ、気持ち悪いことを言ってしまいました。申しわけありませんが、いずれにしても、この男に対して私は反面教師にしてしまおうと思いました。
 「市販ののど飴が新型コロナウィルスに効く」などという嘘(うそ)がデマとして広がると、ありとあらゆる『のど飴』が買い占められて、店頭の棚から消えてしまうような感じがします。がしかし、そこにはいくつかの注意事項があります。まず、のど飴をなめすぎる人は砂糖による虫歯や歯周病に注意する必要があります。虫歯や歯周病が気になる人は、多少値段が高くなりますが、ノンシュガーやキシリトール入りのものがよろしいと思います。また、人によっては、のど飴に含まれているハーブの成分が体に合わないことがあるとのことです。そうしたハーブの成分を含まない『のど飴』を選ぶことが必要です。そしてまた、ビタミンC入りののど飴もよろしいかもしれません。ビタミンCは粘膜を強くしてくれるという栄養効果があるそうです。ただし、それを摂取しすぎることにより、より健康になったり病気が治ったりすることはないようです。いずれにしても、それ以前に「のど飴が新型コロナウィルスに効く」わけがない、と常識的に考えることが何よりも大切です。
 女児を誘拐しようとしたらしい例の男は「相手は子供だから簡単にだませるだろう」と、あまり何も考えずにこの手口を思いついたのでしょう。けれども、私はこのことをよくよく考えてみました。すると、最近ちょっと気になることに思い当りました。『誤嚥(ごえん)』の問題にたどり着いたのです。
 誤嚥(ごえん)というと、「食事中に食べ物を喉(のど)につっかえる高齢者」のイメージが一般的です。しかし、最近の傾向によると、誤嚥が起きるのは食事中だけに限らず睡眠中にも起きうる、ということがわかってきています。また、誤嚥を起こすのは、高齢者のみならず、中高年や若者にも起きうる、ということもわかってきています。個人差はあるかもしれませんが、本当は気づいているか気づいていないかの違いだけで、誰でも無関係ではない問題となりつつあります。
 私の体験を申しますと、今月2日の夜に発熱したその2、3日前の朝、目が覚めた直後に異様な経験をしました。まだ床に伏していたのですが、上を向いたまま動かない姿勢で横たわっていました。ふと何か微量の液体が気管支を通って、スーっと降りていきました。なのに、咳(せき)も出ず痰(たん)も出ず、長く尾を引いて消えてゆく流れ星のように、それは静かにその痕跡が消えていくような感覚でした。寝覚めの直後の意識が続いていたので、寝ぼけていなかったことは確かです。でも、その瞬間に何が起きたのかは、私自身、しばらくわかりませんでした。いつもの私であったのならば、体を右か左へ横に向けて眠るようにして、上を向かないように意識していたはずです。しかし、その意識の支配を免れて、睡眠中の誤嚥が行われていたらしいのです。
 そもそも、私が体を右か左に横向けて眠るよう心がけるようになったのは、風邪をひいて鼻水が出るようになって、鼻水や鼻の粘膜が喉のほうへなるべく多く流れていかないようにするためでした。風邪をこじらせるなどして、鼻粘膜や扁桃腺などのいわゆる上気道の防御を通過してしまうと、風邪を引き起こす病原体が、喉を通って気管支や肺のほうへ行くということになります。そうなってしまうと、軽い鼻風邪や扁桃腺炎から気管支炎や肺炎に変わっていきます。そうなると、ただの風邪で済まなくなります。「風邪は万病のもと。」という諺(ことわざ)通りに、重篤化して、なかなか治りにくくなるばかりか、命が危険にさらされることになりかねません。
 一般的に考えてみると、人間の肌とか皮膚をただれさせないような病原体が、なぜ呼吸器官(鼻、喉、気管支、肺)に入ると炎症を起こすのか、ということが、そもそもの疑問と考えられます。それは病原体の側に何かがあるというよりも、人間の体の側に何かがあると考えるのが普通です。外部から空気と一緒に異物として入ってきた病原体が、これらの呼吸器官を通る時に、それらの粘膜に接触して炎症を起こします。その炎症が局所的なものに終わらずひどくなれば、発熱症状が体に出てきます。その人の体のコンディションによって、徐々にその症状が出てくる人もいれば、急激に出てくる人もいます。また、その症状が短期間の人もいれば、長期間の人もいます。それは、誰もが知っている一般的な知識のはずです。
 それでは、新型コロナウィルスの場合はそれとは違うと言えるのでしょうか。ほかの感染経路を特別にたどって、呼吸器官に入ってくるというのでしょうか。その答えがそうではないことは、誰でもわかると思います。(別に、私は「ウィルスが細胞内に侵入して、細胞内で増殖する。」等の学説を否定しているわけではありません。その辺を誤解しないでください。)
 しかしながら、私は、その『誤嚥』というものが無意識のうちに起きてしまい、どんなに注意しても意識しても避けることが難しいと知りました。もしも、少量の唾液の中に生き残った病原体がいたとして、それが呼吸器官の各所粘膜やせん毛などの防御を通り抜けて、肺に到達してしまうと考えてみますと、どうにも防ぎようがありません。それで何も起こらなければよいのですが、『誤嚥性(ごえんせい)肺炎』といって肺に炎症が起きて呼吸の機能が弱体化すると、血中内酸素が不足して、体の抵抗力も落ちていきます。すると、呼吸器官の各所防御機能も落ちていき、いわゆる負のスパイラルに陥り、時間の経過と共に急激に状況は悪化すると考えられます。よく『急性肺炎』というものがあって、急に症状が悪化するのはそうしたメカニズムに主によるのではないかと、私は考えています。その一例になるかわかりませんが、とりあえず述べておきます。私の祖父母は、1980年代にいずれも80歳代で亡くなりましたが、もともと肺疾患が無かったにもかかわらず、死亡診断書に書かれた死因が共に肺炎でした。
 感染症対策の一つに「大声を出さない。」というのがあります。大声を出すということはその直前直後に口から大きな吸気をしなければなりません。一気に吸い込んだ空気の中に病原体がいると、それが一気に肺に到達してしまう、ということもゼロではないということだと思います。そうとは言っても、病原体が肺の細胞に付いたとしても、即刻炎症を起こしたり、発症したりするわけではないと思います。それも、その人の体のコンディションによってさまざまであり、ウィルスなどの病原体と直接接触したから即死亡ということは、人間の作った細菌兵器でないかぎり本当はあり得ないことです。
 そう考えてみると、「不要な外出を控える。(Stay home)」という感染症対策の言葉は、2つの意味を持っていると考えられます。一つは、「多くの人が外出することによって、多くの人が集まる場所、すなわち、3密になって逃がれられない場所を少なくする。」という社会的な対策です。もう一つは、「個人の外出自体は問題ないものの、外出するということは帰宅しなければならず、そのたんびに外から病原体を持ち帰ってしまう可能性を各人が減らさなければならない。」ということへの個人的な対策です。後者については、少し説明が必要なので、その詳細は別の機会に譲ります。いずれにしても、「病原体を吸入してしまった呼吸器官にかかる、その負担を少しでも軽くしてあげる。」という目的が読み取れることは明らかです。外出の目的と同時に、自身の容体を十分に観て考えて、外出するか否かを判断することが必要です。ここまで読んできて気が付かれたと思いますが、肺にかかる負担にはリスクがあり、肺炎には注意が必要です。それはそうなのですが、別のことに気を取られて、そうした肺炎のリスクをどうしても見逃してしまうことが、ずっと恐ろしいことなのです。
 今の世の中では、ちょっとむせたり、咳(せき)をしただけで、周りから変な目で見られたり、あるいは、私たちはそういう人の近くにいるだけで、つい顔をしかめてしまいます。そういうご時世だから、と誰もが言うかもしれませんが、私たち一人一人がその加害者か被害者の側にいつ回ってしまうかは誰にもわかりません。知らず知らず誰もがやってしまうことが怖ろしいのです。

 今回言及した『誤嚥(ごえん)』についても、他人に迷惑は直接かけてはいないものの、咳(せき)や発熱と同じように生理的なものです。意識的に我慢をすれば、止められたり防げたりするものではないようです。
 実は『誤嚥』を改善するトレーニング方法はあります。唾液を飲み込む練習をすることです。これは、誰にでもできそうな方法です。それで、冒頭の『のど飴』の話に戻ります。ウソかデマかと疑ってもらってかまいませんが、その唾液を飲み込む練習に『のど飴』が使えそうだと私は思って、実践してみました。効果は人によってまちまちであり、科学的根拠もそれほどないかもしれません。「溺れる者は藁をもつかむ。」と笑ってもらってかまいません。再度、念を押しておきますが、「のど飴がコロナに効く」というのはウソですから決して信じないでください。
 今の現状で本当はどうしたらいいかと考えることを私があきらめてしまったと、側(はた)からは見えるかもしれません。たとえあきらめていなくても、不安なことは不安です。ただ、いくら不安になっても、不安が解消されるわけではありません。いくらパニックになっても、問題は何も解決いたしません。
 それでは、『誤嚥』についてよく知っている人から、「そんなこと普通の人は起こらないから、大丈夫だよ。」と言ってもらったならば不安が消えるでしょうか。その答えはノーです。その逆に、誰かに「それはウソだよ。デマを広げないでほしい。黙れ。」と言われても、その不安が『私にとっての事実』から消えない限りその主張を私は曲げないことでしょう。
 ですから、この記事を読んでいる皆さんは、これはウソだ、作り話だと判断されたならば、私の書いていることを鵜呑みにしないでなるだけ信じないで欲しい、とここでお願いしておきます。(そのことを前提にして、以下のようなことを書かせていただきます。)
 最近、世の中では、よくフェーズが変わったと言われています。しかし、『感染』という言葉のフェーズが全く変わっていません。「感染しないように」とか「感染したら終わり」とか「感染したら怖いし不安だ」というニュアンスが『感染』という言葉に潜んでいて、いろんな人の判断をあやまらせ、混乱を生んでいることは明らかです。これほどまでにテレビやラジオや新聞やネットなどで多用されているにもかかわらず、言葉の一人歩き、すなわち、人によって意味する内容が微妙に違ってくるということがあまりなくて、一定のニュアンスを保っている普通の(固有名詞でない)単語は珍しいと思いました。
 これは暴言に近いかもしれませんが、何とかして『感染』という言葉のニュアンスを少しずつずらしていくことはできないかと夢想しています。当たり前のことですが、ワクチンや特効薬が一般に普及すれば、それが一変することは明らかです。しかし、現実の問題として、それを待っていては、社会の経済や医療、そして、何よりも人間の心と体がもたないことは、誰の目にも明らかなことだと言えます。人々に焦(あせ)りの色が見えてきているのは、それが一番の原因だからだと思います。

 

感染症対策の国語表現的分析

 『肺炎』の心配について、ブログ記事の下書きをしている最中に、ちょっと気になるテーマを見つけました。感染症対策として主に言われていることについて、国語の表現としてはどうなのかということです。そんなこと後になってから、ゆっくり評価すればいいじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、世の中の現状として、『緊急事態宣言』という言葉の縛りから、つい個人的に一時的に解放されたくて、結果として外出してしまい、人が多く集まってしまう場所ができてしまっているようです。おそらく、現場で実際にそれを目の当たりにしたら、誰もが「仕方ないな。自分一人の力じゃどうにもならないから、せめて自分だけでもウィルスにやられないことを期待するしかないな。」と思って、買い物などを続けるしかなかったことでしょう。
 しかし、ウィルスがそんなことを思う人間の気持ちを理解してくれるはずはありません。ウィルスは小さな微生物なので、そんなことを考える余裕のある脳みそを物理的に持ち合わせていません。私たちが、ここのところ毎日渋々と相手にしなければならないのは、融通の利かないそういう相手です。そしてまた、この21世紀に至っても、人間は、それほど自然を思い通りにできているわけではないのです。この新型ウィルスのために全世界で多くの人々が命を落としている(推計)という現実は、私たち人類の科学と科学技術、医療がどんなに成長し発達しても万能ではない唯一の証拠なのかもしれません。(もっとも、万能・完璧・絶対何とかなるという理想みたいなものをたやすく信じてしまう人間の側にも問題があり、愚かさが感じられますが…。)
 余計な話をしてしまいました。ところで、『新型肺炎』という言葉を私は過去に使いましたが、正確な表現ではないので『肺炎』として訂正いたします。インターネット上で調べたところ、この『新型肺炎』という言葉はSARSコロナウィルスの特定までに使われていた、その症状への呼び名(つまり、呼称)だったそうです。改めて、陳謝させていただきます。
 「3密を避ける。」「不要な外出を控える。(Stay home)」「手を洗う。」といった主な感染症対策の言葉やその言い回しは、これまでそうしたことに馴染(なじ)みの薄かった私たち日本人にとって、理解が追い付かず、行動も変えにくいという状況が一部で見られます。
 確かに、これまでの私たちは、限られた空間に群れることが普通だったと言えます。満員電車にすし詰めになることは、それ自体が社会人として、かつ、サラリーマンとして当たり前のこととして認めてきたことでした。ですから、「3密を避ける。」と言われても、それがウィルス感染対策に有効だと言われても、「本当のところは、実際にウィルスにやられて痛い目を見ない限り、身に沁(し)みてわからない。」というのが本心なのだと思います。そして、これまで馴染(なじ)みの薄いその言葉が、(本当は強制ではなく、自主性を促されているのですが)強制的に感じられて、余計な緊張感や違和感を強いられて、結局油断や気の緩みにつながってしまうようです。テレビのニュースで毎日報道される感染者確認数が、本当は関心を持たなくてはいけないと思いつつも、自ら強いて他人事にしないと気が持たない(ストレスになる)、という心の流れになっているようです。
 「3密を避ける。」という言葉は、本当に私たち日本人を窮屈にしている言葉なのでしょうか。まず、私はそのことに大きな疑問を感じています。一見、今までの習慣をやめて特別に我慢を強いるように発せられるこの言葉は、日本語表現的に分析してみると全く違う語感を持っていることがわかります。この文の述語の「避ける」という言葉は、「回避する」と言い換えることができます。つまり、動物にとっては当たり前の権利あるいは意志である「逃がれる」という意味につながる言葉だと私には思われます。
 本当に強制的なのは、それとは逆に、実際にいる環境から逃れられない状態にいることだと思います。他人に強制されるのではなく、環境に強制されて身動きできない、どうにもならない、逃げたくても逃げ場がない、という場合にこそ、『強制的(な環境)』という言葉を使いたいところです。満員電車の走行中のように、周りじゅう他人(ひと)ばかりで、そこから一人だけ自由に逃げ出せない。そういう状態にこれまでの私たち日本人は慣れきってしまって、環境に制約・強制された不自由さというものを意識しないで生きてきました。そんな当たり前に思ってきたことが、外国人にとってはそうではないのだということに気づいて欲しいと思います。
 この「どうにもならない、逃げ場のない密集した状態」あるいは「現場の環境に強制される状態」を、以前私は土曜日の夜のニュース番組で、たまたま目にしたことがありました。一日の運行本数を減らされた、ニューヨークの地下鉄車内が満員になっていた映像でした。詳細は割愛しますが、その当然の帰結が現在の犠牲者数につながっていると言えましょう。(もちろん、私は、ニューヨークが悪いとか言いたくはありません。現在のニューヨークではそれを反省した対策が行われています。)あんなことがなかったならば、失われなくてもよかった命も多かったのではないかと思うとやりきれません。今の私たち日本人も一人残らず例外ではないと思います。他人に強制された空間ではないので、誰が悪いとは言えません。「他人(ひと)が密集する」という『現場の環境に強制された空間』で、私たち誰もが逃げようにも何処にも逃げられなくなるのです。
 さて今度は、「不要な外出を控える。(Stay home)」という言葉を少しだけ考えます。家にずっといることを『監禁状態』として受け取っていては、何も始まらないと思います。なるだけ3密を作らないためとか何か意味目的があるため、そうしたことが呼びかけられているのだと思います。また、次回のブログ記事で『肺炎』のことに言及しますが、その中でも「呼吸器官(特に肺)にかかる負担を少しでも軽くする」ということに触れるつもりです。それと関係がありますが、その「不要な外出を控える」ことに盲目に従うのではなくて、ある程度のわかりやすい理屈で理解できなければ(そのことで、補償という言葉の一人歩きも気になりますが)、きっと痛い目を見るほうの道を私たちの多くは選んでしまうことでしょう。いかなる科学者やお医者さんであっても、そのことに責任が取れないということに、私たちは一人でも多く気がついて欲しいものです。
 3番目の「手を洗う。」は、例えば私の前回のブログ記事から『かぼちゃモザイクウィルスの話』を読んでいただくとわかると思います。中性洗剤をつけて水洗いすることが当然のこととして述べられていますが、それよりも大切な別な点があります。つまり、私たちの手がウィルスに触れて無症状キャリアー(媒介者)と同じになってしまうことです。それでは、手袋をしていればそうならないと思うかもしれませんが、今度はその手袋が無症状キャリアー(媒介者)と同じになってしまいます。その逆に、もしもウィルスに触れた手の皮膚が腫れたり、ただれたりすれば、消毒をするべき部位や場所が特定できて、その感染の封じ込めもたやすいかもしれません。(あくまでも私の想像ですが。)
 あなたの手が無症状キャリアーと同じになって、あなた自身の呼吸器官(鼻や喉など)やあなた以外のほかの場所に感染を広めたら、いついかなる時でも(手遅れになるという意味で)大変です。そうならないために、あなたの手に石鹸をつけた手洗いやアルコール消毒が習慣として必要となるのです。
 このように、これらの感染対策の言葉や言い回しは、内容を一歩踏み込んで考えてみると、強権的でも強圧的でもない国語表現であることが理解できると思います。かといって、忖度(そんたく)や遠慮をしている国語表現でもありません。むしろ公平で中立的な、冷静に受け止めるべき言葉であり言い回しと言えます。したがって、私たちはもう少し専門家さんの発する言葉に真摯(しんし)に耳を傾けて、そのメッセージを自然体で受けとめて理解し直してみる必要がありそうです。
 なお、他の事柄についても国語表現的に分析検討してみると、まだまだいろいろと考えられそうです。例えば、感染症対策としてテレワークが国から勧められているため、世の中はそれにこだわっていますが、テレワークが利用できない地域も少なくないと思います。私がいる地元では、JAや直売所からの内容・要件や税務署の確定申告などは、書面で郵送して対応しています。また、手元の携帯電話も諸連絡に利用できています。テレワークの利用ができなくても、いろんな手段が工夫次第でできるはずです。この際いろいろと考えてみると良いと思います。
 

微生物のちょっとした話

 今回は、少し予定を変更して(肺炎の話は次回以降にまわします。)、私の本業に近い話をしたいと思います。
 「こんな緊急事態時に何事だ。」とお叱りを受けるかもしれませんが、私としては行政に関わる方々の行われていることに対して、批判や意見を述べる立場にはありません。そうした行政機関に対する批判や意見は一切してきてはいませんし、これからもするつもりはありません。ただ、一般の人たち(いろんな立場の人がいるのでしょうが)が、おかしな方向へ雪崩(なだれ)打っていってしまいはしないかと、少しだけ心配をすることがあります。私だって個人ですから、いつも正解を出せるかといえば、不正解や失敗のほうが多いような気がします。でも、あまり気にしないで、さっそく話に入りたいと思います。
 先日4月5日(日)に、たまたまテレビのニュース情報番組を見ていたら、とある男子大学生が記者に屋外でインタビューされて「コロナウィルス怖れすぎ?」と答えていました。都市部に女性を探して出てきたものの、街行く女性の誰からも避けられて、がっかりして記者さんにそうこぼしていました。
 これは私の想像ですが、ウィルス学などの科学的で学問的な知識を勉強した上で「世の中はみんなコロナウィルスのことを怖れすぎている。」と考えたのであれば、それなりに価値があることではないかと思います。しかし一方、何も知らないで直感的にそう感じたのならば、ちょっと残念です。せっかく若いのに、何の専門的知識も学ばずに、そんなこと言ってしまうなんて、独りよがりな自信過剰でしかなくて、怒りを感じるよりもかえって可哀想に思えてしまいます。
 そんなこともあって、そもそも、目に見えないほど小さいウィルスって何なのか、その実感を伴わないものに対する『あなたの恐怖心』がどれだけのものなのかを、一般の人たちに気づいていただきたく思い、今回は筆をとった次第です。いろいろわからないことが多いとは思いますが、即答を求めるような問題ではないので各人でじっくり思いをめぐらして考えてみてください。
 
かぼちゃモザイクウィルスの話
 まず、過去に経験した話をしましょう。6、7年も前の話なのですが、露地(屋外の畑)でズッキーニを株と株の間を1mくらい空けて220株くらい栽培していた時の話です。実は、ズッキーニは、使ってよい農薬が少なくて(つまり、農林水産省で許認可されている農薬の種類が他の作物よりも比較的少なくて)、病害虫が出たらちょっと大変な面がありました。もっとも、私は、農林水産省に文句や不満があるわけではなく、ズッキーニという野菜だからしょうがないなと思う程度でした。実際、病害虫が出ても、大規模経営栽培ではありませんから、それほど大きな損害にはなりませんでした。
 それよりも厄介なのは、ウィルス感染対策でした。ズッキーニは、かぼちゃモザイクウィルス(ZYMVやWMVなど)にかかりやすく、そのワクチンも治療薬もありません。つまり、ウィルスに効く農薬というのものは、一つもありません。それではどうするかと申しますと、ズッキーニの葉にモザイク模様が出てきたり、成長点や花が縮(ちぢ)れてきたならば、感染を疑って、なるべく早くその株を引き抜いて、なるべくその畑から離れた場所へ廃棄します。せっかく一か月以上かけて育てたのに畑から引き抜いて、そのようにほかの健康な株と隔離するために廃棄しなくてはなりません。ズッキーニを栽培している同業者の人に聞いてみても、「ウィルスに感染した株は、回復することはないので即刻、抜かなきゃダメだ。」と語気を強めて言われてしまいました。
 かぼちゃモザイクウィルスは、空気感染はなく、また、植物が動物のように頻繁に移動しないという理由から、畑に一気に感染が広がるということはありません。屋外の畑に感染が充満することもないわけで、ウィルスの感染で農作物が全滅するということも起きていません。ただ、ウィルスは目に見えないほど小さなものですから、本当はなにもわからないという科学的根拠のない不安が、私の同業者にもあることは事実です。
 実感を伴う例として、こんなことがありました。ウィルス感染したズッキーニを取る時に触れたハサミや手で、別の健康な株のズッキーニに触ってしまうと、2、3日後には後者の株の成長点や花が縮れてしまいました。「あー、やっちゃった。」と思いました。つまり、私自身が、かぼちゃモザイクウィルスの無症状キャリアー(媒介者)になってしまったのです。それ以降、私はハサミや手に中性洗剤をつけて流水で洗うように気をつけるようになりました。
 これを読んで、笑い話のように私が書いていると思われるかもしれませんが(読んでいる皆さんは笑ってくれていいのですが)、ズッキーニをただでさえ安値で出荷せざるを得なかった私にとって、収穫できる植物の株が減ることは出荷量が減ることであって、そのことには後悔しかありませんでした。それでも、広く自然界をみると、ウィルスの無症状キャリアー(媒介者)になるのは、私のハサミや手だけではなく、大量のアブラムシやハエやチョウやアリなどの虫のみならず、ハエを食べるカエルや、畑をうろつきまわるトカゲなどもなっていることがあります。アブラムシの防除は農薬か非農薬かでできます。しかし、それ以上は、自然界を相手にしてウィルス感染対策はできないな、と当時はあきらめてしまいました。例えば、感染した株を地面から抜いた時に、無症状キャリアー(媒介者)がそこから逃げ出して、近くの健康な株に移ってしまうので、なかなか畑全体のウィルス感染を止めることができませんでした。
 もっと大切なことを言うのを忘れていました。かぼちゃモザイクウィルスに感染したズッキーニ自体は、見た目や日持ちや食味が悪くなるので、私は決して地元の農産物直売所などに出荷していません。誤って出荷した場合や、出荷後にズッキーニの見た目が悪くなった場合は、即座に引き取って土に埋めて廃棄しています。今のところ、かぼちゃモザイクウィルスが、食べた人間に害を及ぼしているという事例を聞いたことがありません。つまり、そのように私が用心しているのは、「念のため。」という個人的な理由のためだけです。その件で、一般の方々が、心配することは何もないということを付け加えておきます。

地元の土壌でEM菌が効きにくいという話
 私がまだ東京都に在住していた頃、東京都の、とある区営家庭菜園でEM菌の散布が農産物の栽培に効果を上げていました。そこで、長野県で私が就農した時に、地元の農家さんにEM菌を使ったらどうなるかを聞いてみたことがありました。ところが、あまり効果が出なかったという意外な回答が返ってきました。地元のほかの人にも、いろいろ話を聞いてみたのですが、やはりEM菌は効かないという話が大部分でした。そして、それはおそらく地元の土壌には土着菌が居座っていて、新参者のEM菌などが入ってくると排除したり効かなくしているようなのです。昔から長野県は、よそ者に冷たい土地柄と呼ばれていましたが(最近は少し変わってきましたが)、人間界のみならず微生物の世界でも『よそ者』に対しては厳しいのかもしれません。

「なんとなく、クリスタル」という話
 『なんとなる、クリスタル』という小説がかつてありました。以前、長野県知事であられた田中康夫さんの作品です。私は、その本の中身を知りません。『なんとなく、クリスタル』という小説のタイトルと、クリスタル族という社会現象があったことしか知りません。でも、このタイトルは長野県っぽいな、と私は個人的に思っています。以前私は、地元の駅から『しなの鉄道』に乗って、その車窓から明るい陽射しや、澄んだ川の水や、透き通った空気を眺めていました。それで、私の頭の中に「なんとなく、クリスタルしなの鉄道」という言葉が浮かびました。
 しかし、その言葉をよくよく考えてみると「見た目は綺麗でも、本当は・・・」ということではないかと思いました。見た目はどんなに綺麗な風景であっても、科学的に顕微鏡で観ると土着の微生物が水にも空気にもうじゃうじゃいる、というのが真実なのだと思います。人間の英知としては、見た目にだまされずに油断をしない。「あれは『なんとなく、クリスタル』なだけなのだ。」と考えることも、時には正しいと思いました。
 

『もしかして食べているかも』疑惑

 今回も、すべてデマや妄想じゃないかと疑ってもらってかまいません。そのことを前提にして書き進めましょう。
 この記事のタイトルからして、きっと栄養がある食品の話だとか、体に抵抗力が付くような、免疫力がアップするような食品を見つけたとか、という話の流れになるように思われるかもしれませんが、実はそうではありません。
 「そもそも、私たち人間は、ほかの動植物の死骸を食べて命をつないできた。」とする見方があります。昔私は、とある本の裏表紙にそんな一文を見つけたことがありました。本当のことを言うと、人間だけでなく、地球上の生物一般にそうだと言うことができます。
 そのようなことは、文学的には、宮沢賢治さんの『よだかの星』という作品中で、彼の仏教思想として語られています。そしてまた、一般的には、人間(ヒト)が誰しも、ほかの動植物の命をいただいてこの世に生き続けていられるのだと、仏教の説教などでもよく聞かされます。(ただし、私は宗教家ではありません。そんなこと言ったって、それを日常でいちいち気にする必要は勿論ありません。)
 そうとは言っても、毒物や毒素を含む動植物を食べるわけにはいきません。カビの生えたお餅を食べても、中毒を起こすばかりです。それどころか、人間誰しも命を落としかねません。病原菌で毒素を持つものが胃腸に入ると、命が危険にさらされることも少なくありません。
 そこで考えられることは、現在世界中で騒がれている新型肺炎コロナウィルスですが、その議論においてすっきりしない点がいくつかあるように思えます。最近では、『新型コロナウィルス』とか『コロナウィルス』とか言葉を略して多く使われています。英語でも、"CoronaVirus"というような単語で目にするわけですが、どうも気になることがあります。『新型肺炎コロナウィルス』とフルネームで呼ぶことは、この言葉を多用する場合にとても面倒で、ほとんどの場合、略して呼んでいます。すると、『新型肺炎』という言葉の意味内容よりも、『新型ウィルス』という言葉の意味内容で伝わることが多くなります。そして、いつしか「肺炎をひき起こす新型のコロナウィルス」という言葉が『感染者数』『死亡者数』『感染拡大』などの言葉とくっついて、「新型コロナウィルスは怖い。」という情報につながってきます。
 しかし、ここで立ち止まって考えてみましょう。『肺炎』という言葉は、どこへ行ってしまったのでしょうか。本当に怖いのは、『新型肺炎』なのでしょうか。それとも、『新型ウィルス』なのでしょうか。勿論、どっちとも怖いというのが一般的な今の常識でしょう。けれども、一般的に、直接の死因となるのは、『肺炎』なのでしょうか。それとも、『ウィルス』なのでしょうか。
 こうした問題を考える上で一番に考えることは、この『新型コロナウィルス』そのものの持つ『毒性』がどれくらいあるかという点です。実は、インターネット上ではこの『毒性』の有無やその度合いについての情報が様々に出ています。しかしながら、現時点では、まだ確たる研究結果は出ていません。
 私が必要としているのは、この新型ウィルスの『化学的毒性』の有無についての情報です。つまり、現在知られている毒物や毒素、あるいは、劇物のような危険な化学的物質がこの新型ウィルスにあるのかどうかという点です。実は、それも一般的にどうなのかはわかっていません。
 確かに、このウィルスが肺の中に入ると炎症を起こすであろうことは周知のことです。しかし、それで呼吸困難になるのは、このウィルスに何らかの毒性のある物質が含まれているからだ、というような情報は今のところ伝わってきてはいません。今のところ、このウィルスが呼吸困難を引き起こすであろうところのメカニズムは、私がテレビのニュース番組で観たかぎりでは、それとは別のものでした。
 仮に、このウィルスが毒物や毒素などの化学物質的な毒性を持っていないとしましょう。(かなり乱暴な議論ですが)となると、このウィルスは(正確には、ウィルスの死骸ですが)人間が食べられるということになります。現時点では、本当に毒性があったならば人命が危うくなるので、断言してはならないことです。しかし、可能性としては全くあり得ないことではなく、今後の確たる研究成果を待ちたいところです。もしもそれが人間に食べられるものであったとしたならば、世の中の状況は変わってくるかもしれません。
 この問題は、そもそも、人間が野生動物を食べたことからこのウィルスが変異して感染したことから始まったとされています。だから、そこに誰も触れたがらない。しかし、同時にそこに問題解決のカギが潜んでいる可能性もあると言えましょう。
 そして、それよりも実際に厄介なのは、『新型肺炎』の問題です。これについては、次回のブログ記事で考えてみたいと思っています。