さる女性のチェッに思ったこと

 先日NHK総合テレビの『チコちゃんに叱られる』を観ていたら、「ささいなことで好きな気持ちが冷めるのはなぜ?」という問題の解答VTRの中で、ちょっと気になるシーンがありました。とは言っても、それは批判ではありません。一瞬唖然として、後で笑ってしまったという、ある意味でキャッチなシーンでした。
 若い男性が、洗面所で歯磨き粉のチューブのかわりに辛子のチューブを見つけて、若い女性とちょっと揉(も)めそうになるシーンがありました。それを、何事もなかったかのように円くおさめようとする男性。すると、その彼の見ていないところで、チェッと悔(くや)しそうに舌打ちをする女性。
 テレビでその一連のシーンを観ていた私は、何が何だかすぐには理解できませんでした。ちょっと考えてみて、これは男性に対する、女性の意地の悪いイタズラだな、と気がついて、つい私は嬉(うれ)しくなってしまいました。もしも、私が女性だったならば、一度はやってみたいイタズラです。本当はやってはいけない、つまり、禁断の(漢字で『悪戯』と書きますが)イタズラです。
 この女性のチェッという舌打ちには、たとえば「何年私とつきあっているのよ。いいかげん、本当のことに気づいたらどうなのよ?」みたいな、男性への冷めた気持ちが見てとれるから、面白いのです。確かに、一般的に男性は、女性の意地の悪さを容易には認めたがらない、言い換えれば、それに目をつぶりがちなものです。でも、女性の側からすると、それはイライラします。男性の見ていないところで、すなわち、かげでチェッと舌打ちする気持ちもよくわかります。
 ちなみに、ネット検索上のAI、つまり、ウィンドウズのCOPILOT(コ・パイロット、副操縦士)に「洗面所 からしチューブ いたずら」といきなり聞いてみたところ、たまたま『いたずら』について会話を続けることはできないと丁重な言葉で拒否されました。ネット検索AIのCOPILOTが「何でも聞いてください…」と問いかけてくるものですから、つい私はそのような質問をしてみたわけです。
 でも、人間のようには融通が利かないAIとしては、これは正しい反応だと思いました。周知のことですが、COPILOTは、GPT-4というAIを使用しています。そのAIの会話拒否に対して、私は人間としてチェッと舌打ちしました。このように、私のほうがずっと意地の悪い人間なのかもしれません。

PТAに対する野次馬的見解

 最近、学園を舞台としたテレビドラマを観ていて、少し私の心にひっかかるものがありました。その中でも特に、バカリズムさんの脚本でPТAを風刺したドラマ作品を観て、現在の親御さんの気持ちってそんな感じなのかなあ、と思うところがありました。すなわち、児童の保護者は、なるべくPТAの仕事は受け持ちたくないと思っている人が多いということです。
 私は、人の子の親になったことがありません。しかも、教職に就いたこともありません。だから、親御さんの気持ちも、学校の先生の気持ちも、本当のところ実感してはいません。確かに私は、H大学時代、教職課程の授業に全部出席して、教育実習にも行きました。けれども、教員採用試験を一度も受けることなく、サラリーマンになる道を自ら選びました。そのような私の生い立ちからして、それに対する見解は、PТAを外野から批判し評価する、いわゆる野次馬的なものにしかならないのかもしれません。それでも、何かの参考にはなることでしょう。だから、ちょっとだけ目を通していただいても、損はないかもしれません。
 私が小学校の児童だった頃のPТAはどんな感じだったのかと申しますと、兎に角、すごいというイメージがありました。PТAの会長さんが、学校の近所で小さな病院の医院長をなさっていました。また、二人の小学生の息子さんを持つ、教育熱心なお父さんでした。学校の競泳大会があると、PTA会長の名にかけて、二人の息子さんが必ず一番をとらないといけないような、すごい熱の入れようでした。一緒に泳ぐ相手に、PТA会長の息子さんがいると聞いただけで、ビビる子が少なくありませんでした。このような学校行事があると、権威あるPTA会長さんの機嫌をうかがって、皆が忖度せずにはおれない雰囲気が周囲に満ちておりました。
 そしてまた、当時は、PTAの全国組織というものが、某消費者団体なみに幅をきかせていました。後にアニメ『デビルマン』の漫画原作者で有名になられた永井豪さんの、少年雑誌や単行本での連載漫画『ハレンチ学園』が、そのPTA組織によって全国的な有害図書扱いにされました。あるいは、土曜の夜にテレビでやっていた『キイハンター』という番組の女性ヒロインが、悪を倒す格闘中にパンチラを見せるので、教育上、子供に好ましくないからテレビを観せちゃいけない、などという情報発信も、当時のPTAからはなされていました。
 このように、中学高校で生徒が自主的に行っている風紀的な役割を、小学校のPTAは担(にな)っておりました。加えて、盛り場のゲームセンターで児童が年長の不良にからまれて誘い込まれる事例もあり、保護者や先生が定期的に見回りをするということもありました。実際に私が知っているPTAは、以上のような感じでした。
 最近、私には、もう一つ気になることがあります。生徒や児童に関わる問題が、テレビのニュース情報番組で取り上げられると、決まって専門家さんの口をつく言葉が気になるのです。「子供は、地域(の責任)で育てるべきだ。」という常套手段と呼ぶべく文言です。子供のことで何か社会的事件が起きるたびに、そのような主張が聞かれます。しかし、残念なことに、その後の経緯(けいい)をたどってみると、その時その時の掛け声にしかならないことも多いようです。
 野次馬的な私から申せば、Parent(親)とTeacher(教師)のAssociation(会)、すなわち、PTAが地域に根ざして機能していることが、「子供は地域(の人々の協力)で育てるべきだ。」という理念の第一歩なのだと思います。親や先生のしつけの行き過ぎ、その体罰の問題、子供同士のいじめの問題、モンスターペアレントの問題、半グレや不良化から子供たちを守る大人の責任問題、子供の自殺や自傷行為の問題等々、PTAが関わるべき課題は少なくありません。それらの課題あるいは問題は、いずれも学校の先生や教育委員会にすべての責任を負わせて解決できるものではないと思うのです。
 人の子の親は、どうしても学校の先生や教育委員会に、その責任のすべてを負わせてはばかりません。どうしても、学校の先生や教育委員会の持つであろう『社会的な権威』にすがりがちです。落ち着いて考えてみればわかりますが、そんな権威など、何処にも存在してはいません。それは、親御さん自身が子供の頃に植え付けられていたある種の幻想にすぎないと思います。
 現に、学校の先生にしても、教育委員会にしても、地方公務員の処遇であることを、私たち市民は忘れてはいけません。野次馬的に申すならば、地方公務員が子供たちの規範にならなければならないという、筋や道理など何処にもないのです。誰も異存はないと思いますが、例えば、警察官は、市民社会の治安を守ることが地方公務員としての職務です。それと同様に、教師(学校の先生)は、国の教育カリキュラムで定められた知識や技能を子供たちに教えることが地方公務員としての職務です。それ以外の問題や責任を、学校の先生に押しつけることは、本来はできないはずなのです。『学校の先生』という、庶民が勝手に造り上げた虚像(例えば、一生好きな勉強を職業としてやっていけるなんて幸せなことだ、みたいな庶民の思い込み)が、教師という地方公務員の職務遂行を妨害していることは明らかなのです。
 したがって、「子供たちは地域で育てるべきだ。」「子供たちの面倒は地域でみるべきだ。」という考え方は、これからの日本社会のあり方として、見逃せない重要ポイントだと思います。学校の先生が偉いのではなくて、周りの様々な大人が偉いのだと、子供たちに体感して納得してもらえることが大切なのです。そのような地域社会を作っていくために、PTAは重要な役割を実は担っているはずなのです。その意思決定機関のあり方として、現存のPTAは、PTPA(Parent & Teacher & Policeman Association)やPTCA(Parent & Teacher & Counselor Association)などの協議会組織に発展するかもしれません。将来、地方自治体の管轄下で、警察や児童相談所の職員とも連携したそれらの組織が、子供たちの命や人権を守るために機能してくれるといいと思います。野次馬的に考えてみても、地域に根ざした活動を、それらの組織が担ってくれることを将来的に期待してやみません。
(蛇足として、以下の事柄を付け加えておきます。最近まで『ブラックポストマン』というテレビ東京制作のドラマを、地元テレビ局の夜中の放送で観ていました。子供たちの命や人権を守るべきはずの、地方自治体の長、警察の長、医師などの大人たちが、まるで逆のことをして、地域の市民や子供たちを苦しめるというストーリーでした。そこで立ち上がったのが、何の権力も持たない郵便配達員でした。その帽子と制服に『P』のマークが付いていて、警官(Policeman)の代わりに、そのポストマン(Postman)が、その地域社会の悪や不条理に立ち向かって、逆に犯罪者として嫌疑をかけられる、という面白いドラマでした。)

 

とある価値観の場外乱闘に興味を持つ

 私は、大学の専攻が、文学部の英文学科でした。なので、H大学の卒業論文として、イギリスの小説家トマス・ハーディの作品『ダーバヴィル家のテス』をとりあげました。論文作成当初は、本作品のストーリーに即して、主人公の女性は一体何者なのかという視点で論文をまとめようとしていました。ところが、この小説作品の参考文献をいくつも調べていくうちに、それまでは思ってもみなかったことに興味を引かれることになりました。そのため、それまでに書きためていた論文の下書きを破棄して、全て書き直すはめとなってしまいました。
 当時の若い私に一体何があったのかと申しますと、だいたい次のようなことがありました。この小説の作者は、作品のタイトルと本文との間のページに副題として’a pure woman’と一言だけ書きました。この『清純な女性』と単純に日本語で訳されている、この一言が、実は大問題だったのです。当時の19世紀のイギリス社会でも、また、あるいは、現代の日本においても、この小説を読んでそれを評価する人々の間では、物議をかもすもととなりました。この小説の主人公のテスという女性は、果たして『清純な女性』と言えるのか、それとも、『清純な女性』とは言えないのか、という問題に、老若男女の意見や評価が真っ二つにわかれることとなったのです。つまり、これは、この小説のそもそもの存在価値を問う、賛否両論の大問題なわけです。
 当時の私は、ナスターシャ・キンスキーさん主演の映画『テス』くらいは知っていました。しかし、それほど切実な動機もないまま、この小説を卒論のテーマに選びました。しいて言えば、桑原武夫さんの著作『文学入門』の巻末に掲げられた、『世界近代小説五十選』という作品リストを見て、当時の私がまだ読んでいなかったイギリスの小説の一つとして選んだだけのことでした。しかし、作者の記した’a pure woman’という一言に込められていた真意が一体何だったのかを知りたくて、H大学の図書館に何度も通って、私自身の卒論のために参考文献を片っぱしから調べることになりました。
 その結果わかったことは、いろんな人がいろんな意見を述べていて、一つとして同じ意見はないものの、相反する2つの説に集約できるということでした。先にも述べましたように、主人公の女性テスを’a pure woman(清純な女性)’として肯定する説と、それを否定する説です。例えば、主人公のテスは「どんなに運命に振り回されても自身の愛を貫く『清純な女性』だ。」とする説と、「否(いな)、彼女は『清純な女性』なんかではない。現に二人の男性と肉体関係を結んでいるではないか。」と反論する説があります。そのように意見の対立があるのは明らかです。
 私が調べたところでは、そのどっちつかずに見える説もありました。ただし、その根拠をよくよく吟味してみると、完全な中立ではなくて、肯定説と否定説のどちらか一方に近いことがわかりました。あるいは、一部の中立説は、作品の評価を保留するという形で述べられていました。したがって、この小説から読者それぞれの受ける印象が、タイトルと本文との間に’a pure woman(清純な女性)’という副題の一言があることによって、二分されてしまったことは明らかだと思います。
 当のトマス・ハーディ自身は、そのことをどう思っていたのか、ということは誠に興味深いことです。今となっては推測するしかないのかもしれませんが、私なりにそのことを次のように考えてみました。この小説の本文を読んでみると、作者が自然を賛美して描いている部分が多く見当たります。英語の原文を読んでみるとわかりますが、自然の中にいる人間は、生き生きと描かれていて、ある意味、なまめかしくさえ感じられる描かれ方をされています。そのような自然界では、女性が清純かそうでないかは全く議論にもならないことです。そんなことは、生物学的すなわち自然科学的に考えてみても、全く意味がありません。そんなふうに、私は、作者の気持ちを想像しています。
 しかし、同時にまた、人間は、その時その場所で定められた『人間社会のしきたり』に従って生活していかなければなりません。その社会(人間たちのしがらみ)の中で、望まない運命に翻弄されて、つらい気持ちを我慢して生きていかねばなりません。そのような人間社会の中では、個人的な思いや行為が罪深いと見なされて、他者から叱責を受けたり、石を投げつけられるようなことも当然あります。作者トマス・ハーディは、この小説(フィクション)を通じて、そのような個人へのいわゆる同情票もしくは応援メッセージとして、あの『清純な女性』という一言を、その小説の副題として付け加えたのだと思います。
 とするならば、あの『清純な女性』肯定説・否定説の対立を、現代的にはどう考えたらいいのか、ということになります。それについて、私はこう考えます。この小説が、作者トマス・ハーディの意図するところを離れて、場外乱闘的な賛否両論で多くの読者や評者を巻き込んでしまうという、そのこと自体に重要なポイントがあるのです。
 卒論提出当時の私は、それを『作品の独り歩き』と結論づけています。私の卒論を審査した教授からは、その先の考察が知りたいという意見を承りました。残念ながら、私は、文学修士・博士という研究者への道には進みませんでした。そして、サラリーマンとして社会の荒波に揉まれる運命を選びました。しかし、だからこそ、かえって作者トマス・ハーディの真意みたいなものが、今の私に、現実としてわかってきたのかもしれません。
 その『作品の独り歩き』について述べる前に、まず触れておくべきことがあります。今になって私が考えていることは、その『清純な女性』という言葉の背景にあったものは、現代的に考えて一体何なのか、ということでした。つまり、それは、男性から見た一方的な価値観、あるいは、男性目線による『偏った価値観』があることだと思います。(男性の私が、なぜ男性に厳しいのかと疑う人もいるでしょう。しかし、私は、女性の側に甘いわけではありません。人間として公平なだけです。)すなわち、エンジェル・クレアという男性が、テスと過去のあやまちを打ち明け合った後に、どうにもならなかった彼の絶望の根っこにあった、ある種の価値観に注目しました。特に、私は今でも未婚者なため、結婚した男性は、最低でも一度は、彼と同じような気持ちになることを知っています。男性は、女性が思い描いているよりも、はるかに弱くてデリケートなものなのです。
 この小説のストーリーによると、エンジェル・クレアは、彼自身が過去に犯した過ちをテスに打ち明けて、彼女に許してもらいました。ところが、女性であるテスの打ち明けた過去のあやまちをどうしても許すことができず、その場で彼女から遠ざかってしまいました。後になって彼はそのことを後悔するのですが、そのことのためにテスの心は失意のうちに荒(すさ)んでしまいます。ついには、彼女は殺人を犯してしまい、法で裁かれ死刑となります。
 このようなアンチなストーリーは、この小説発表当時の19世紀イギリスのヴィクトリア女王時代の、とある価値観と関係がありました。「男性の愛する女性は『貞淑すなわち清廉潔白で清純』でなければならない。」という、当時の社会に押しつけられていた価値観がありました。
 もちろん、当時のイギリス社会において、そのような『個人に押しつけられた価値観』が悪かったとは一概に言えません。このような『個人に押しつけられた価値観』が社会にあることによって、当時のイギリス国民はまとまることができて、政治的にも軍事的にも経済的にも隆盛をきわめていたことは、世界の歴史を学んでみれば明らかなことです。一方、トマス・ハーディのような小説家の作品は、そのような当時としては不評で、やがて彼自身が小説家の筆を折るという結果となりました。
 すると皮肉なことに、この『ダーバヴィル家のテス』という作品が作者ハーディの手を離れて、『作品の独り歩き』を始めたと、私は推測しました。つまり、『作品の独り歩き』とは、小説などの作品が、その作者の手を離れて、多くの読者や評者・研究者の手に委ねられ、その主導権が引き渡されることなのです。作者は亡くなっても、作品は残って生き続ける、という現象です。作者がこの作品の副題として付け加えた『清純な女性』という一言が、人間社会に現存する『押しつけられた価値観』というものの一つを読者の意識に浮き上がらせて、作品の評価を二分するほどの物議をかもすこととなりました。そのことが、『ダーバヴィル家のテス』という文学作品をこの世から忘れなくさせてしまった、と私は思うのです。この小説が、それがきっかけでこれまで読まれてきたと考えると、その不遇な運命と同様に、その運命の皮肉さを感ぜざるをえません。

地震は忘れた頃にやって来る

 私は、東京で生まれ育ったため、子供の頃から地震があると「地震は忘れた頃にやって来る。」とよく大人から聞かされてきました。「震災は忘れた頃にやって来る。」とか「天災は忘れた頃にやって来る。」という同様な言葉も教わりました。そういえば、9月1日の『防災の日』は、大正12年(1923年)のその日のお昼直前に関東大震災があったために制定されました。当時の東京は木造家屋が多くて、お昼の準備で火を使っていた家庭が多かったために、地震発生後に広範囲で火災が発生して、多くの犠牲者が出ました。そのような過去の教訓から、私が小学生の頃には、毎年9月1日の授業中に防災訓練がありました。校内で突然サイレンが鳴って、各自が机の下に入って自身の頭を守るということを、そのための訓練としてやっていた記憶があります。
 この「地震は忘れた頃にやって来る。」という言葉は、「地震の教訓を忘れなければ、それ(地震)は永遠にやって来ない。」という意味ではありません。地震というものは、それが来ると意識しているうちは、なかなか来ないものです。そのような人間の意識とは無関係にやって来るものであり、時が経ってそれ(地震)に対する意識が薄れてきた頃に、つまり、誰もが忘れた頃にいきなり発生して、人々をあたふたさせるものだということなのです。
 そこで、地震を予知するという研究が、これまで行われてきました。けれども、その緊急速報を受け取っても、何かを対処したり避難をしたりするための時間が短くて、役に立たない。と、そう思っている人が多いと思います。地震の予知としてはまだまだ不十分ではないかと、考えている人がかなり多いと思います。
 しかし、(いまだに多くの人が気づいていないと思われますが)何の予告もなく、いきなり発生する地震と向き合わなければならなかったそれまでの過去と比べると、これは大きな進歩だったのです。現在、P波とQ波のズレを利用した科学的かつ確実な方法で、地震が来ることを一瞬でも先に意識できることは、人間の意識に関して言えば、それまでとはかなり違いがあると言えます。地震の揺れにあわてることなく、心を構えることもできるわけです。たとえその寸前に何もできなかったとしても、その直後に落ち着いて行動できる可能性があります。大きな災害につながる、小さなミスを防げる可能性もできます。だから、地震の緊急速報を受け取る私たちの側は、そのようなことをもっと意識して、もっと冷静に行動するべきなのです。
 地震とその突然の揺れに、不安と恐怖を抱いてしまうことは、人間として致し方のないことです。それでも、現在あるところの、地震の緊急速報の意味を少し考えてみるだけでも、価値があると思います。昔、東京の自宅で私がよく言われていたことは、地震が起きても、家の外へは出るなということでした。あわてて外へ出ると、屋根の瓦が落ちてくるので危ないというのです。私の自宅は、鉄筋コンクリート建てではなく古い木造建築で土壁です。だから、建物が倒壊して、その下敷きになる可能性もありました。しかし、地震発生時に、その不安と恐怖にあおられてあわてて行動することは、かえって想定外の危険を招くことになります。いざという時に、あわてて行動して、どんな過失をおかすかもわかりません。その前に、たとえ一瞬でも、パニックを防ぐ『気持ちの間(ま)』ができれば、危険を逃れて助かるかもしれません。何が起こるか確かにはわからないとしても、そのような意識は減災となり、そして、防災につながるかもしれません。
 「地震は忘れた頃にやって来る。」という言葉もまた、なぜ、どのようにして地震がやって来るのかという問いに対する、妥当な答えの一つだったと言えましょう。もちろん、それは、過去を忘れがちな人間の心を揶揄(やゆ)しています。それと同時に、いきなりやって来る地震への不安と恐怖が、人間の心が無知なるゆえに生じていると示唆しているともとれます。「地震とは、そういうものだ。」と、ひとまず結論付けて、いざという時にあわてないようにと、教えてくれています。

 

ダビデ像の裸体はワイセツか?

 少し前のことだと思いますが、「裸のダビデ像ワイセツである。」あるいは「そのダビデ像はポルノである。」と訴えた人がいるという事件がありました。そのワイセツという根拠は、それが男性の裸を表現している像であること、すなわち、男性の性器もあらわになっていることにあったようです。ワイセツということは、その像が一般大衆の目にさらされていて、不快に思う人が多くて、公序良俗を汚(けが)している。と、そのように主張されているというわけです。
 そういえば、こんなことも過去にはありました。学校の授業で、女性の裸像の美術作品のスライドを見た某女子学生が、それをワイセツだと訴えたという事件です。確かに、異性の裸像を写真や美術作品で見て、私は何も感じないのかというと、そんなことはありません。しかし、そのような男女の裸像を美術作品やその写真で見て、即ワイセツかつ有害(つまり、目の毒)だと判断してしまうのは、ちょっと変な感じがします。ひょっとしたらば、その人は、対象をよく見ないで、「ワイセツだ。」と言い放って、顔を背けているだけなのかもしれません。あるいは、その裸像を見ているうちに、何だかムラムラしてどうにもならなかったのかもしれません。それとも、何らかの性的虐待を受けた過去がその人にあって、心に負った傷から即座に拒絶反応を示したのかもしれません。
 しかしながら、いずれにしても、私は美術作品の裸像をワイセツだとは思いません。美術作品であるならば、美術館やギャラリー展示室などの適切な場所で見る分には、全然問題ないと思います。自然科学博物館で骨やミイラなどの展示物を観るのと、大体同じことです。時と場所をわきまえれば、ワイセツでも何でもありません。
 それよりも、「ワイセツだ。」「ポルノだ。」と主張する人の側に関心が向きます。あの裸像から、生身の人間の男性性器を想像できるなんて、すごい豊かな想像力だと思いました。私は男性で、毎日あれを見る機会がありますが、裸のダビデ像のあれとは、少し違うと思っています。つまり、それをワイセツあるいはポルノだと言い切るには、実際には、それ相当の個人的見解がないとできないと思います。
 現代人は、価値観の多様化を認める社会に生きています。裸のダビデ像を見て「ワイセツだ。」と誰かが言ったとしても、「それは間違いだ。」とムキになることはありません。誰かがそのように断言して、他者を訴えたとしても、それは間違えではありません。それは、その人の自由であり、個人的な意見としては認められるべきです。ただし、そこから一歩進んで、「ダビデの裸像はワイセツだから、公に禁止するべきだ。」とか「女性の裸像の美術作品は、ワイセツでエッチだから、見てはダメです。」などと、他人に強要することはできないと思います。「他人も自身と同じ意見でなくてはならない。」とか「そうじゃなければ、世の中みんなが幸せになれない。」などと考えるのは、おかしなことです。それほど今の世の中は、各人の多様性に満ちています。それが良かろうと悪かろうと、ある意味でそれは仕方のないことです。自身の独自の見解を容認してもらいたいならば、それとは正反対の、まったく違う見解も認めるべきなのかもしれません。
 したがって、どう自己主張するのかは個人の自由ですが、その主張を他人に強要できるかと言うと、それはまた別の問題と言えましょう。『価値観の押しつけ』とか『押しつけられた価値観』と呼ばれるものがあるようです。「価値観を押し付けられる」などと言うと、ネガティブな表現に感じられるかもしれません。しかし、実際には、誰もそれほど気にかけてはいないようです。ほとんど無意識のうちに、他者に何かを押しつけて、かつ、受け入れられているようです。何かを押しつけられてはいるものの、それがあるからこそ、人間同士が何らかのやりとりができるわけで、必ずしも悪いこととは言えません。
 しかし、最悪の場合は、喧嘩であり、戦争になってしまいますから、慎重を期する必要があります。この問題に関しては、もう少し詳しく別のブログ記事で改めて述べてみることに致しましょう。

 

何をどうやって『尊重』するのか?

 今回は、日常的でありふれていることに関して、なるべく理屈っぽく考え述べてみることに致しましょう。「他人の意見を尊重する」とか「個人を尊重する」と、よく言われます。日本国憲法の第十三条には、「すべての国民は個人として尊重される。」とあります。そこで、『尊重』という言葉の意味するところを普通に考えてみると、なかなか容易ではありません。私の持っている古い国語辞典で、尊重という言葉を引くと、「とうとび、おもんずること。」という、まるで循環論法に陥るようなことが書いてあります。同様にして、『尊厳』という言葉を調べると、「とうとく、おごそかなこと。」などと書かれています。それでは、その実態がよくわからないので、インターネットでいろいろ調べてまとめてみることにしました。「価値あるものとして、大切に扱うこと。」という解釈が、私にはしっくりと来ました。
 もちろん、「価値があると感じられないと、大切に扱えない。」ということになると思います。けれども、『尊厳』とか『尊重』という言葉には、何か抑圧的なものを感じてしまいます。私としては、素直に従えない気持ちです。つまり、「少数意見を尊重する」「他人の意見を尊重する」「個人を尊重する」あるいは「弱者の立場を尊重する」などと言われて、そうしなければいけない、と他人から強要されても、「場合によっては、そのようなことに素直に従えないこともある。」というのが私の正直な見解です。かえって、通常それが容易でないからこそ、そのような主張に意味がある、とも考えられます。
 また、子供あるいは被害者などの弱者の立場を尊重する場合、余りに気を使いすぎて、過保護的になってしまうことも、よくあることです。難しいところですが、相手の立場をよく理解して、適切に判断することがよいと思います。(無理かもしれませんが)なるべく感情的にならずに、冷静に対処したいものです。
 そして、このような問題に関して、どうしても外すことができないポイントは、『組織』についての考え方です。人間社会的には、コミュニティ(共同体)とかいう言葉で一般的に知られています。しかし、本当は、いかなる場合でも、外せない言葉であり、考え方です。特に、現代の若い世代の人たちには、(もちろん彼らに直接責任はありませんが)欠けていると思います。あまりに、個人の気持ちや主張を重視しすぎるような感じがします。学校や会社の中で、人間的に揉(も)まれてこそ、それは治ってくると思います。しかし、その前に悪の道に染まったり、自殺をしてしまうなどの脆弱な面も彼らには診られます。(それもまた、実は、若者自身の責任ではなく、大人の側の責任です。)日本人の生き辛さの原因も、おおかたそこにあるのかもしれません。
 『組織』といっても、学校や会社だけではありません。私たちがつどう集団もしくはコミュニケーションの場や、各種の団体もそうです。そしてまた、国家という大きな組織、すなわち、アメリカ・ロシア・中国などの大国の政治的組織から、『家族の絆』とも呼ばれる、各家庭という小さな組織まで、人間が形作り、そこに帰属する組織というものはピンからキリまであります。私たち一人一人の『個』でさえも、「健康を維持する」という観点からすれば、そのおのおのが『組織』であることは明らかです。言うまでもなく、そのような『個人』が、それぞれの『細胞の組織』であることは、自然科学的にも明らかなことです。私たちが「健康を維持する」ということは、私たち自身を形作る細胞組織を守ることに他(ほか)なりません。
 したがって、私は、現代の若い世代の人々への教育には、『個人』と『組織』の両方を意識させる教育が必要であることを提唱したいと思いました。『個人』に偏重しても、『組織』に偏重しても、私たち一人一人は生きていけません。『個人』および『組織』に対する意識のバランスが、これまでの私たちの生き辛さを多少でも解消してくれることを期待して、今回の話を閉じたいと思います。

 

猫の日に一言

 先日の2月22日は、『猫の日』でした。それで思い出されることを2、3述べておきたいと思います。私は、生身の猫を飼ったことがありません。よって、想像上の『猫』の話をします。まず、頭に浮かぶのは、夏目漱石さんの『吾輩は猫である』です。小学校の図書館で初めて見つけた時は、前編後編の2冊に分かれていました。小学生が読みやすいように、現代仮名づかいで、いくつか挿絵も入っていました。私には、主人公の猫が水に落ちて溺れ死のうとしている絵が特に印象的でした。
 当時まだ小学生だった私は、テレビのドラマやアニメに夢中でした。小説はおろか、子供向けの漫画や絵本や物語などの本は、興味がなくて一冊も持っていませんでした。だから、小学校の図書館で『吾輩は猫である』を借りてはみたものの、ざっと言葉に目を通すだけで、ほとんど真面目に読んでいませんでした。猫が人間の言葉で語っているところは、テレビアニメの『もーれつア太郎』に登場していたニャロメと同じでした。
 ニャロメといえば、薄幸のイメージを背負った猫のイメージが強かったと思います。人間の言葉が話せる猫なので、少々プライドが高くて、人間の若い女性とつきあいたくて、優しくする傾向がありました。しかし、その若い女性の側は、いつでもニャロメを動物の猫としてしか見ていません。結局ふられてしまいます。ニャロメは猫なので『結婚』という言葉を、『キャッこん』としか発音できません。(ちなみに、キャット(cat)じゃありません。)「オレと、キャッこんしてくれニャ。」みたいに言うところに、哀愁が漂っていました。映画『男はつらいよ』のフーテンの寅さんみたいなところがあったのかもしれません。
 さて、最近では、こんな動画を見つけました。TOMOOさんの”Ginger 【OFFICIAL MUSIC VIDEO】”というものです。以前このブログ記事に書いた、夜遅くにやっていた音楽情報番組で、2023年に注目されたJ‐POPSの曲が紹介されていましたが、その上位の曲としてTOMOOさんの”Super Ball”や”Grapefruit Moon”が紹介されていました。それで、私はYouTubeサイトを検索してみました。そして、この音楽動画に出会いました。
 この曲中には、”ginger cat”という言葉が出てきます。しかし、歌詞をたどっていくと、それが猫なのか人間なのかわからない。もしかしたら、猫なのか人間なのかはそれほど重要なことではないのかもしれない、と感じさせられます。
 という私自身は、夜行性で単独行動が多い、ある意味『猫人間』なので、そういう音楽表現に関心を引かれるのかもしれません。ただし、『猫』とは同類ゆえに、相容(あいい)れない、というところもあるようです。つまり、私自身のその気ままさゆえに、生身の猫を飼ったり、猫と同居した経験がないというわけです。